オーストラリア辞典
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Denison, William Thomas

デニスン、ウィリアム トマス


1804-1871
ロンドン生まれ。
ヴァンディーメンズランド副総督(1847-1855)、ニューサウスウェールズ総督(1855-1861)マドラス総督(1861-1866)。


 いくつもの植民地の総督を歴任した実務家。オーストラリアの各植民地が自治植民地に移行する際に、重要な役割を果たした。ジェントルマン階級の次・三男として典型的な経歴を有する人物ともいえる。

 1804年3月3日、ロンドンに生まれる。イートン校から陸軍士官学校(サンドハースト)に進み、1826年に卒業し英国陸軍工兵隊に加わる。その後、工兵隊将校として、カナダでの運河造成、ポーツマス、ウリッジ、バミューダなどでのドックの造成・補修を監督した。

 1846年、首相グラッドストンにより、サー・ジョン・アードリ=ウイルモットSir John Eardley-Wilmotの後任として、当時、流刑囚が増加しつつあったヴァンディーメンズランド植民地の副総督に任命された。デニスンは囚人の懲罰・矯正や植民地への労働力を供給する手段として流刑を重視し、流刑廃止論が強力になる中、流刑存続の立場をとった。ヴァンディーメンズランド副総督としての任期は、まさに流刑廃止運動の盛んな時期の最終期にあたっていた。彼はヴァンディーメンズランドがタスマニアへと名称を変更することにたずさわったが、この名称変更がタスマニア植民地が流刑地であった過去を消し去ることを目的としていたのは、彼にとっては皮肉なことであった。デニスンが着任した時の植民地の政治状況は、立法評議会の人選をめぐって混乱の渦中にあった。彼は6人の愛国者Patriotic Sixの問題にかかわり、ドッグ・アクトthe Dog Actの合法性をめぐって最高裁と争っている。その他、工兵学への関心を植民地で実践し、任期中にはドックや港、橋などを土地税や関税を財源に建造し、数多くの土木事業を行なった。また、教育分野にも業績があり、宗教上の理由で各宗派からの反対もあったが、いわゆるアイリッシュ・ナショナル・システムを奨励した。彼の任期中には植民地の政治制度も整備された。たとえば、1850年の植民地国制法(13&14Vic.c.59)によって、定員24名の1院制である立法評議会(定員のうちの3分の1を君主が任命し、残りが選挙で選出された)が創設された。しかし、評議会員の選出をめぐるデニスンと地元との角逐は、ヴィクトリアのゴールドラッシュが始まるまで、植民地省を巻き込みつつ激しさを増していった。

 1855年、デニスンはニューサウスウェールズ総督に就任し、同時にオーストラリア総督Governor Generalとして、名目上、ニューサウスウェールズ、タスマニア、ヴィクトリア、南オーストラリア、西オーストラリアをも管轄した。デニスンは、クリミア戦争の影響をうけて、着任後すぐにニューサウスウェールズ、とくにシドニー近辺の防衛力を強化している。ちなみに、シドニー港のフォート・デニスンFort Denisonは彼の名からとられた。彼がニューサウスウェールズ総督に就任していた間、1856年のニューサウスウェールズなど、大部分のオーストラリア植民地に自治が導入された。しかし、植民地の自治制度が確立していくなか、総督としての彼は自治政府や議会と対立していく。たとえば、彼は総督としての任期の終わり頃に、国璽の使用が自治政府によって制限されることをめぐり、植民地議会と衝突している。その一方でデニスンは、ヴァンディーメンズランド植民地と同じくニューサウスウェールズでも教育に力を注ぎ、シドニー大学やシドニー・グラマー・スクールの発展に力を貸した。彼の任期中に採用された4フィート8インチの鉄道の軌幅は、ヴィクトリアや南オーストラリアのものより狭く、後の国民経済の発展にとって大きな障害となった。1861年、デニスンはニューサウスウェールズ植民地を後にして、インドのマドラス総督に就任した。1866年、インドでの任期を終えて帰国する際には、技術者として建造に携わったスエズ運河を経由している。イングランド帰国後は政治生活から引退し、各地で講演をおこないつつ、1870年には著名な2巻本Varieties of Vice-Regal Lifeを著している。1871年1月19日サリー州のイーストシーンで死去した。

 坂本優一郎00