オーストラリア辞典
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Dyson Family

ダイソン・ファミリー


 オーストラリアの有名な芸術家と作家の一家である。その中でも最も良く知られているのは、ウィリアム・ヘンリー・ダイソン(1880-1938)である。彼は、芸術家であり作家であった。ヴィクトリアにあるバララットの近くのアルフレッドンAlfredtonで、1880年9月3日にジョージ・アーサー・ダイソンの息子として生まれた。彼の父親は、ロンドンで生まれ、1852年に植民地に来た。そして、金鉱で鉱夫や金鉱の技術者、行商人として働いた。母親のジェーンは、ランカシアの紡績工の娘である。一家はダイソンが子供の時にメルボルンに移住し、彼はアルバート・パークの公立学校を卒業した。ダイソンは『ブレティン』紙や他の新聞に載せる漫画を描き、リンジー一家と仲良くなった。また、メルボルンのボヘミアンのリーダー的存在となった。彼は、1909年にルビー・リンジーRuby Lindsayと結婚した。結婚後、すぐにイングランドに渡った。ダイソンは、急進的な漫画家として成功し、1912年から1916年にかけてロンドンの『デイリー・ヘラルド』紙にカートゥーンを連載した。彼はそれから、オーストラリア政府が任命する戦争報告画家となり、戦場で2回負傷した。再び1918年から1921年の間、『ヘラルド』紙で働いた。しかし彼の妻が、スペイン風邪で死んだことによって、大きな精神的打撃を受けた。彼は、その後漫画家として戦前の活力を取り戻せなかった。それでも、彼の最も有名な漫画Peace and Future Cannon Fodderは1919年に出版された。1925年に彼はオーストラリアに戻り、メルボルンの『ヘラルド』紙や『パンチ』、『テーブル・トーク』に漫画を描いた。彼はエッチングも始め、それはイングランドやアメリカ合衆国でさらに彼を有名にした。彼は1930年にアメリカ経由でイングランドに戻り、再び『ヘラルド』紙で漫画家として死の直前まで働いた。彼の出版物には、Cartoons(1914)、Kultur Cartoons(1915)、Will Dyson's War Cartoons(1916)などがある。

 エドワード・ジョージ・ダイソン(1865-1931)はウィリアムの兄であり、1865年3月4日にヴィクトリアにあるバララットの近くのモリソンで生まれた。短編や詩を書く作家であり、彼も弟ウィリアムと同じように急進的ナショナリズムを作品の題材にしていた。彼の作品は1880年代後半に『ブレティン』紙で発表され、その作品は衰退していく金鉱のユーモアや、物悲しい子供時代の思い出をもとにしていた。彼の作品のテーマは、ローソンやパターソンが好んで扱ったものであるが、残念ながら彼の作品はローソンほどの影響力を持たなかった。彼は、12歳の時に学校を去り、父親の仕事を手伝うようになった。その後一家がメルボルンに移動してからは、作家としてエドワードが家族の収入の多くをもたらすようになった。また、1900年までエドワードの年収は600ポンドを上回り、フリーランス・ライターとして豊かな収入を得る数少ない作家の1人となった。1914年9月9日にロイヤル・パークにあるセント・ジョージ教会で22歳の音楽教師ドロシー・ボイズと結婚し、1917年には娘が生まれた。1919年に流行性感冒にかかってからは健康をそこない、1931年8月22日にエルウッドの自宅で死亡した。彼の出版物にはRhymes from the Mines(1896)、The Gold-Stealers(1901)、In the Roaring Fifties(1906)、Spats' Fact'ry(1914)がある。

 ダイソン・ファミリーには、他にウィリアムの兄であり、漫画家でイラストレーターのアンブローズ・アーサー・ダイソン、アンブローズの息子で漫画家のエドワード・アンブローズ・ダイソンがいる。

 田中沙依0701