オーストラリア辞典
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Ethnic influences on sport

スポーツへのエスニック・グループの影響


 オーストラリアへの初期の移民の多くは母国への愛着を保持した。イギリスのスポーツはその文化の一部として、故郷との絆をもたらした。スポーツへの参加に関して、イギリス人はドイツ人のような後の移民との違いはないが、その数が圧倒的に多かったので、オーストラリアのスポーツに支配的な影響を及ぼしている。

 植民地のエリートにとってスポーツは、社会的地位を示すためのものでもあった。彼らはコミュニティーにその存在感を示すために、フィールドスポーツに参加したり、適切なコスチュームを着たり、競馬の後援を行ったりした。オーストラリアの気候に合わない時でさえ、真夏にモーニングを着用するなど、イギリスでの習慣が時折採用された。植民地のエリートが子弟をイギリスに送ったのは、文化的教育のためであり、スポーツはそこで重要な役割を担っていた。例としては、T.W.ウィルズはラグビー校で教育されたが、メルボルンに戻ると、彼の経験をオーストラリアのフットボールの創造のために用いた。また、H.M.ハミルトンはエジンバラ大学で、スコットランドの代表としてラグビーをした。そして、シドニーに帰って、裁判官となるが、王立シドニー・ゴルフ・クラブのメンバーとなることで、スポーツへの関心を持ち続けた。

 文化的な持続性はイギリスからの移民の継続によって保たれていた。「筋肉的キリスト教徒」muscular christiansが、若いオーストラリア人にスポーツの精神や、スポーツの男性的性格構築の面を強調するために、教育者として呼ばれた。他にもイギリスからの移住者はテニスやサイクリングなどの新しいスポーツをもたらした。スコットランド人のホレーショ・カースローは1903年にシドニー大学の数学教授として着任した。彼はすぐに様々なゴルフのサークルでの活動を始め、ゲームだけではなく、それにまつわる参加や行動の文化的パターンの確立を助けた。

 イギリス以外の移民のスポーツに対する大きな影響は、1940年代から1960年代初期に、戦禍から逃れるためヨーロッパからの移民が多くきたことや、南ヨーロッパから多くの移民が工場労働のために移民してきたことに始まる。各民族の社交クラブが成長するとともに、それぞれの伝統スポーツも成長した。バレーボールやハンドボールがその例として挙げられるが、とりわけサッカーが注目を集めた。 1950年代末までに、サッカーの組織は完全にイタリア、ギリシア、スペインなど民族をベースに置くようになった。大きな民族のコミュニティーにおいては、内部のさらなる文化的分裂によって、複数のチームが生み出された。その顕著な例が、セルビアとクロアチア、ギリシアとマケドニアである。ヨーロッパの政治的対立の広がりの中で、ギリシアとマケドニアのサポーターが衝突した1990年の騒動は、民族的アイデンティティに基づくスポーツ上の対立の最新のものである。クラブや協会、全国組織の指導者はサッカーに対する愛情、深い知識と同様に、政治的な策略によっても交替した。アングロ・オーストラリア人は移民を見る疑いの目でサッカーを見る傾向があった。実際、サッカーの絆は常にエスニックな問題と強い関わりをもって展開されてきた。オーストラリア人のエスニシティに対する態度が変化するにつれて、サッカーに対する態度も変わり続けた。

 20世紀末にオーストラリア人の文化的アイデンティティに動揺を起こしたスポーツにはサッカーだけではなく、バスケットボールがある。バスケットボールは最も成長が早かったスポーツであり、外国の影響は構成や組織の構造、社会への浸透において明白である。全てのチームにアフリカ系アメリカ人が入り、オーストラリアに帰化している。バスケットボールはチームの個人所有が奨励されたオーストラリアで最初のスポーツでもある。テレビやNBAのおかげで、バスケットボールのユニフォームなどがサブカルチャーの一部となっている。オーストラリアで圧倒的に有力であったイギリス文化の遺産は、アメリカからの強い影響力にさらされている。 1991年のオーストラリア・デイにはABC(日本のNHKに相当する)が、スーパー・ボール・ファイナルをライヴ放送した。一方では、オーストラリア・ベースボール・リーグがアメリカの後ろ盾で運営されている。

 真水晃00