オーストラリア辞典
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Evatt, Herbert Vere

エヴァット、ハーバート・ヴェア


1894-1965
イースト・メイトランド、ニューサウスウェールズ。
政治家、法律家。


 史上最年少で最高裁判所判事を務め、1941年から49年まで、激動期のオーストラリアのみならず国際政治においても、外相・法務相として奮闘した労働党の政治家。

 もとはイギリスの名家の出身であった父ジョンは、ハーバートが7歳の時に世を去ったが、シドニー生まれの母ジェーンの薫陶により教養豊かに育ち、シドニー大学のセント・アンドルーズ・カレッジに進学、いずれも首席で法学と文学を修めた。エヴァットは、1918年に労働党に入り、弁護士として移民救済などで活躍した。ニューサウスウェールズ州下院議員(1925-1930)を経て、1930年には36歳で最高裁判所の判事に任命された。判事としてのエヴァットは、常に連邦の権限を強化する立場で判決を下した。

 1940年に連邦下院議員に当選したエヴァットは、翌年成立したカーティン労働党内閣で外務大臣と法務大臣を兼任し、チフリー内閣まで9年間にわたり在職した。

 戦時中は、英米両国の狭間にあって、オーストラリアの地位向上をめざし、44年にはニュージーランドとの間にアンザック条約を締結した。戦後は、1948年には国連総会の議長に就任し、対日講和ではその寛大な処置に反対し、中規模国としてのオーストラリアの安全と発言力維持のために獅子奮迅の活躍をした。

 一方、国内では法務大臣として、反共主義に一貫して反対し、メンジーズ自由党内閣成立後も、野党として保守勢力の反共政策に抵抗を続けた。1951年には労働党の党首に選ばれた。しかし、エヴァットの左派寄りの方針と強引な政治手法は、しだいに労働党内の反発を強め、1954年のソ連大使館員ペトロフの亡命事件への対応で事態は悪化した。1955年のホバート会議で、労働党は左右に分裂したが、エヴァットはどうにか危機を乗り切った。しかし、労働党は総選挙で敗北を続け、健康問題もあり、1960年エヴァットは党首を辞任した。

 エヴァットが貫いた自由主義は、時には容共派として非難を浴び、労働党の分裂を招くことになったが、死去(1965)したときには、彼の知性と活躍に対して惜しみない賞賛が送られた。美術の収集家としても知られる一方で、「オーストラリア労働党のリーダー」(1940)では文学博士号を授与された。

 酒井一臣00