オーストラリア辞典
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Florey, Howard Walter

フローリー(フロウリ)、ハワード・ウォルター


1898-1968
アデレイド生まれ。
病理学者。


 抗生物質ペニシリン研究の第1人者。「魔法の弾丸」とも呼ばれ、患者の細胞(ホスト細胞)を傷つけることなく、病原性細胞を選択的に攻撃するペニシリンの大量生産と実用化に多大なる貢献を果たした病理学者。

 オーストラリアのアデレイドで、イギリスからの移民で靴製造者のジョゼフと妻バーサの間に生まれた。セント・ピーターズ・カレッジ、アデレイド大学を卒業後、ローズ奨学金を得て1921年にオクスフォードへ入学する。1924年にはケンブリッジへ移り、在学中の10ヵ月間ほどアメリカ合衆国で過ごした後、ロンドンで研究を行った。1926年にアデレイド大学時代に知り合ったメアリMary Ethel Hayter Reed(1900-1966)と結婚、翌年からケンブリッジの病理学部で教鞭をとっている。1931年から1935年までシェフィールド大学の病理学教授、その後1962年まではオクスフォードのサー・ウィリアム・ダン病理学研究所の教授であった。

 フローリーの病理学に対する、それ以上に世界に対する最大の貢献が、ここオクスフォードでなされたペニシリン研究であった。ペニシリンはセント・メアリー病院の細菌学者、アレクサンダー・フレミングAlexander Flemingにより1928年に発見された物質であったが、フローリーはドイツからの亡命学者エルンスト・チェインErnst Chainとともに、ペニシリンの研究を始めた。1938年から1939年にかけて、2人は抗菌性物質を体系的に研究し、ついにペニシリンの単離に成功。1940年に行われたマウスへの動物実験に成功するや、すぐさま人間に対する臨床試験へと進んだ。おりしも第2次世界大戦の最中で、負傷した兵士の治療薬としてペニシリンは大きな注目を受けており、研究成果は極秘条項ですらあった。1942年、英国政府の要請でフローリーは合衆国へと向かう。英米共同によるペニシリン研究のためであった。大戦末期にペニシリンの大量生産に成功、多くの連合国兵士の生命を救った。フローリーはペニシリンの研究成果から、1941年に王立協会の会員に選ばれ、1945年にはノーベル生理医学賞をフレミング、チェインとともに受賞した。

 フローリーは23歳の時以来、イギリスに居住し続けていたが、発音や外見はオーストラリア人らしさを留め、オーストラリア国立大学の設立にも携わった。1948年から1955年にかけて、キャンベラのジョン・カーティン医療研究所のアドバイザーを、1962年にはオクスフォードのクィーンズ・カレッジの学長を務めている。1965年にはオーストラリア国立大学の学長も務めた。1944年にナイトに叙され、1960年にはオーストラリア人として初めて王立協会の会長となり、1965年には男爵として一代貴族に叙されている。フローリーは多くの科学文献を著し、メアリとの共著『抗生物質』を著したり、『ジェネラル・パソロジー』の編集などを行った。

 1967年、長年の同僚マーガレットと再婚したが、翌1968年2月21日、心筋梗塞で死去、埋葬された。フローリーは巨万の富を残さなかった。1940年代、ペニシリンに関する特許を取得することは、医療倫理に反するからであった。

 藤井秀明00