オーストラリア辞典
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Franklin, John

フランクリン、ジョン


1786-1847
リンカンシア、イングランド生まれ。
北極探検家、ヴァンディーメンズランド植民地副総督(1837-43)。


 1786年4月16日リンカンシアに生まれ、グラマースクールで教育を受け、14歳で海軍に入隊する。叔父のフリンダーズの遠征(1801-1804)に参加し、探検への情熱を燃やすようになる。1818年には将校となり、1819-22年と1824-28年にはカナダから北極への遠征を指揮した。その後海軍で現役で活躍する場がなかったので、1837年にヴァンディメンズランド副総督に就任した。

 フランクリンが統治したヴァンディーメンズランドには、自由人の社会と囚人の社会が共存しており、それが帝国と植民地との間に利害の対立をもたらしていた。行政職の経験のないフランクリンにとって、もともとこの任務は困難なものであったが、ニューサウスウェールズへの流刑停止によって、ヴァンディーメンズランドへの入植者が増加したことと、植民地長官ジョン・モンタギューとの間に対立が起こったこととがそれをいっそう厄介なものとした。また1840年に始まる深刻な不況は、植民地の人々のフランクリンへの不満をさらに高めた。フランクリンは在位中大きな成果を上げることができなかったが、その唯一の功績は、世俗の初等教育の創設であった。また彼はクライスト・カレッジの設立者でもあり、彼が設立したタスマニア自然史協会the Tasmanian Natural History Societyは、後にイギリス帝国で初のロイアル・ソサイエティに発展した。結局モンタギューとの対立がもとで1843年に失脚した。

 イギリスへの帰国後51歳で、北極探検の指揮官となった。タスマニアでの汚名を晴らそうとしたが、北西航路を発見したところで氷山に囲まれ、1847年6月11日に死亡した。彼はこの北西航路の発見者として名をとどめている。ジョンの妻のジェーン・フランクリンは、卓越した能力で知られており、タスマニアの文化生活に大きな影響を及ぼした。

 著書にはNarrative of a Journey to the Shores of Polar Sea , in the Years 1819-22 、A Narrative of Some Passages in the History of Van Diemen's Land during the last three years of Sir John Franklin's Administration in the Colonyなどがある。

 氏久智0701