オーストラリア辞典
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Great Depression

大恐慌、世界恐慌


 1920年代後半から1930年代中頃にかけて世界中で起こった経済の深刻な悪化の原因は、第1次世界大戦後に主要国によって採択された経済・通貨政策にあった。1929年10月、ニューヨークのウォール街で起こった株価の大暴落は、生産過剰により合衆国内で起こっていた不況の傾向を促進した。この生産過剰は、競争の激しい世界各地の金融センターによる過剰融資から起こった。

 1920年代を通じたオーストラリアの発展は、アメリカの発展を反映したものだった。高い保護関税により促進された第2次産業と、第1次産業の拡大と多様化は、ロンドンの金融市場を中心とする海外からの資金調達によりまかなわれていた。世界の貿易と金融市場に統合されていたので、オーストラリアは不況によって大打撃を受けた。主要な輸出品であった羊毛と小麦の価格が劇的に急落し、海外の債権市場での資金の調達が不可能になった。国内的には、すでに始まっていた不景気と干ばつが状況を悪化させた。国民所得は1931年までにおよそ30%低下した。1920年代を通じて平均約7%だった失業率は、1929年に12%、1932年には労働人口の32%に達した。南オーストラリアやニューサウスウェールズは最悪の状態であった。クィーンズランドは失業率が低かったが、それでも1920年代の8倍に達していた。1932年にはニューサウスウェールズだけでほぼ40万人が失業手当てを受けていたと見積もられている。賃金、物価、企業利益、株式の配当金、利率が落ち込んでいた。

 政治的な議論の争点は、政府が雇用を生むために財政赤字に踏み切るかどうかであった。不況の初期に連邦の財務長官だったセオドアと労働党左派は、失業者をなくす計画を実行するために信用を創造するという、穏やかなインフレの計画を提案した。その提案は、オーストラリアの必要を第1に見て、経済が回復するまで海外の資本家への利払いを停止したいと思っている人々の支持を得た。

 当時の労働党政府はセオドアの提案を拒絶し、海外への利払いを続け、財政支出を縮小するというプレミアズ・プランを代わりに承認した。経済学者コウプランド、L.F.ギブリン、L.G.メルヴィル、E.O.G.シャンにより出されたその案では、全ての者が平等に犠牲を払うものとされていた。その計画は不況対策に関する労働党内での上層部の意見の食い違いをもたらし、その結果、労働党は分裂した。あとを継いだ統一オーストラリア党政府は、前労働党大臣、J.A.ライオンズのもと、一連の財政支出のさらなる削減を始めた。この頃、失業者たちは多くの団体を結成したが、労働組合や共産党と繋がったものが多かった。他にもニューガードのような団体も結成された。西オーストラリアでは連邦を離脱する運動が盛んで、ニューサウスウェールズのニューイングランドでは新州をつくる運動が盛んになった。

 1932年後半には回復の兆しが見えてきた。所得、投資、雇用は1937年までに不況以前のレベルにまで回復した。復興の中で製造業は重要な役割を果たした。1932年以降は、イギリス市場における第1次産品に対する特恵関税、アジアの新たな市場、特に日本への輸出の拡大がオーストラリアの食料、原料生産の回復に貢献した。

 見国祐也00