オーストラリア辞典
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Hampton, John Stephen

ハンプトン(ハムトン)、ジョン・スティーヴン


1809-1869
出生地不明。
西オーストラリア総督(1862-68)、船医。


 彼は1828年にエジンバラで医師免許を獲得し、1829年の1月に船医助手として海軍に入った。ブリタニア号にしばらく乗船した後、スフィンクス号でメキシコへ赴いた。 1832年5月に勉学のための休暇を得ることに成功し、6月にエジンバラ大学の証明書を獲得した。その後、プリマスの造船所に配置され、そこでコレラの予防によって頭角を現したが、病気のために1カ月間病院で過ごした。 1834年の12月に船医に昇進し、1843年の3月には船医=監督官になり、ヴァンディーメンズランドへの囚人輸送の任務を与えられた。さらに、1846年の5月に植民地の囚人監督官に任命された。

 彼は植民地の政治家には不人気であり、1855年の7月から始まった囚人管理を調査する特別委員会への証言をハンプトンが拒否すると、立法評議会は彼を告発した。議長は彼の逮捕状を出したが、政府当局はそのような逮捕状の合法性を疑い、彼を逮捕することを拒絶した。新しく着任した総督ヤングは立法評議会を停会し、その間にハンプトンは植民地を離れた。その後の調査委員会の報告はハンプトンが私的な利益のために囚人の労働力を使っていたことを含め、彼が堕落した行為に携わっていたことを主張していた。 1857年にハンプトンは予備役に回され、2年間の休暇が与えられた。

 そのような非難があったにもかかわらず、ハンプトンは1862年の1月に西オーストラリアの総督に任命された。彼の囚人管理への介入は、パースの新聞や著名な市民の批判の的となった。 1867年の9月にハワード協会は西オーストラリアの囚人管理のシステム、特に総督の介入を非難した。ハンプトンに個人的な責任はないと認められたが、囚人虐待の事実はあったと考えられている。 1866年から1867年に多くの囚人が脱走を試みており、囚人が不正な取り扱いを訴えることのできる唯一の手段であった治安判事の訪問委員会は、1867年にハンプトンによって廃止されていた。しかしながら、彼は前任者よりも効果的に囚人労働力を用いており、総督官邸や、パースのタウン・ホールなどが囚人労働により建設された。また、彼の在任中に財務状況は改善した。他方、彼の統治は植民地の自治要求を強めることになった。彼は1868年に植民地を去り、1869年の12月にイングランドのヘースティングズで死去した。

 新林秀亮0901