オーストラリア辞典
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Harpur, Charles

ハーパ、チャールズ


1813-1868
ウィンザー、ニューサウスウェールズ生まれ。
詩人、批評家。


 1813年1月23日、シドニーの近郊、ウィンザーで生まれる。両親ともに流刑囚で、父はアイルランド出身で1800年にオーストラリアに送られ、母は1806年に到着した。

 マクウォリー総督、ジョン・マッカーサー、サミュエル・マーズデン、そしてハスル家の物質的、社会的な後援を得て、父ジョゼフ・ハーパは成功し、その父のおかげでチャールズは当時の彼にしては分不相応な高い教育を受けることができた。後に彼は若い時にどれほど熱心に、徹底的にシェイクスピアを研究したかを回想したが、その膨大な語彙、豊富な引用、そして詳細にわたるイギリス詩の知識は、彼の幅広い読書を証明するものであった。

 1828年ごろ、彼の父親は与えられた土地を失い、1842年に亡くなるまで、年間50ポンドの年金で生活した。家族は離散し、チャールズと長兄ジョゼフはハンター川流域へ移住することになった。チャールズは1833年にシドニーへ戻った。彼は早くからオーストラリア最初の詩人としての運命を予見しており、日常生活に対する関心は欠落していた。1836年まで職を転々とし、1836年から1839年まで郵便の仕分け人をした後、ハンター地方に戻る1841年まで、おそらく新聞関係の仕事に就いていた。その後はシングルトンへ移り、さらにジェリー・プレインズに移った。その後の10年間は定職がなく、一時期は彼の兄弟の代理として1週間10シリングで郵便局長をつとめていた。シドニーに住んだ1844年から1846年の間は、おそらくW.A.ダンカンの『ウィークリー・レジスター』Weekly Registerでつとめていたものと思われる。

 ジェリー・プレインズにいた1843年に、豊かな農場主の長女マリー・ドイルと出会い、1850年7月2日に結婚した。彼には収入を得る見込みがなく、物質的な豊かさを求めるつもりもないと思われたので、家族は結婚に反対した。その結果、結婚までの道のりは長かった。ハーパは国民教育委員会が管轄する教師の職を探し、そのモデル校につとめるための条件を満たすのに1ヵ月間も躊躇していた。その後7年間、彼はおそらく義父ドイルの援助を得て、ドイルズ・クリークで羊を飼って暮らした。

 1859年に、ジョン・ロバートソンは彼を南部金鉱の監督官助手に任命した。そこでは彼は比較的豊かな生活を送った。 1866年6月30日に彼の任期は終了した。その後は、1867年3月の次男チャールズ・チドリーの急死など不幸が続いた。政治的にも、文学的にも希望を失い、1867年の洪水と長期の病で生活の支えを失い、1868年6月10日、冬の朝早くに亡くなった。妻は未亡人となった後30年以上生きた。

 ハーパは19世紀オーストラリアの数少ない詩人の1人であり、もっとも代表的な詩人でもある。その作品には Songs of Australia(1851)、The Bushrangers(1853)、The Tower of the Dream(1865) などがある。

 石光崇昭0901