オーストラリア辞典
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Hawke, Robert James Lee

ホーク、ボブ(ロバート・ジェームズ・リー)


1929-
ボーダータウン、南オーストラリア生まれ。
政治家、連邦首相(1983-1991)。


 労働組合の指導者であり、オーストラリア労働党所属の政治家でもある。庶民からの圧倒的な人気を背景にして、1983-91年の間首相の座についた。

 ホークはコングリゲイショナル教会の聖職者であった父の下で生まれ、パース・モダン・スクールを卒業後、西オーストラリア大学に入学、そこで経済や法律について学んだ。卒業後、奨学金を得て、オクスフォード大学を卒業し、さらにオーストラリア国立大学などで学んだ。

 ホークは在学中から労働政策や労働組合の問題に多大な関心をもっており、大学を卒業したあと1958年にオーストラリア労働組合評議会(ACTU)に研究員、指導者として加入した。そこで頭角をあらわすようになり、1970年には議長に選ばれ、80年までその役職についた。組合とは社会改良のエージェントであるべきという信念のもとに実行力を発揮し、名声を得た。同時にオーストラリア労働党(ALP)にも所属しており、1971年には副議長、1973年からは議長の座に就いた。 ACTU、ALPの2つの組織の代表者として、労働党の政治活動や政策を批判した。1975年に労働党から自由党に政権が移ってからは、雇用問題や若者の問題について弁をふるう野党側のスポークスマンとなった。

 最初の選挙立候補は、1963年のヴィクトリア州の連邦議会選挙においてである。その時は落選した。初当選は、ヴィクトリア州のウィルズの議席を獲得した1979年であった。当選したのち、党の主導権を握り、1983年には労働党の党首に選ばれ、続く選挙での労働党の圧勝をうけて、首相に任命された。

 首相在任中は、長期的な展望に基づいたプランにより、経済面において大規模な変革を行った。またホークの専門分野でもある労働問題については、労働組合と雇用者間の協定(アコード)を基盤とした、新たな労働関係構築のための政策を提唱した。このような政策の効果もあってか、物価と所得との関係が安定することとなった。ホークは実際的な政策を重んじ、そのためアボリジナルやウラン採掘労働者といった分野で、社会的弱者の権利を軽視するという弊害も引き起こしたが、庶民からの人気は根強く、選挙でも圧勝し続けていた。しかし、1991年にポール・キーティングに党首・首相の座を明け渡した。  

 師井学00