オーストラリア辞典
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Higinbotham, George

ヒギンボタム(ヒギンボザム)、ジョージ


1826-92
ダブリン、アイルランド生まれ。  
政治家、弁護士。


 1826年商人であった父ヘンリーの6男として生まれる。 18歳でダブリンのトリニティー・カレッジに入学し、1847年にロンドンの『モーニング・クロニクル』の記者となる。 1853年ロンドンで弁護士になり、同年12月にオーストラリアに移住した。植民地では、法律とジャーナリズムに携わった。 1854年にヴィクトリアで弁護士と認められる。さらに、1856年、30歳で『アーガス』誌の編集長に任命されたが、経営者との意見の相違により59年に辞任した。

 1861年、ヴィクトリアの下院議員に当選し、1863年には司法長官に任命された(-68)。このころ、教育面で、それまでの教育委員会の体制への批判が出ており、新たに公教育を調査する、王立調査委員会が1866年に設立され、ヒギンボタムはその議長となった。ヒギンボタムは熱心な世俗主義者であったが、当初は、教育内容よりも、僻地などでの教育の欠如の方が問題だと考え、共通のキリスト教教育を基盤とした公立教育体制の確立を目指した。最後には、それさえ不可能であると感じて、再び完全な世俗主義を主張するようになる。植民地の2大新聞、『エイジ』紙や『アーガス』紙は彼を支持し、その後ヴィクトリアでは世俗主義が進展することになる。ヴィクトリアでは1872年に教育法が成立した。1871年議席を失い、1873年に再選した。しかし、政治に幻滅し、76年に辞任した。

 ヒギンボタムは19世紀ヴィクトリアの急進主義を代表する指導者であった。その理想主義は現実の政治の変化を実現することはできなかったが、当時の民主的勢力の理想を象徴するものであった。彼はイギリス政府のヴィクトリアへの干渉を批判し、自治政府の権限、内政に関する完全な自由裁量権を主張し、植民地省と対立しつづけた。また、制限選挙によって選出され、保守的な勢力の牙城であった上院と対立し、その廃止を主張した。また女性参政権を支持し、労働運動を擁護していた。彼は8時間労働運動を支持しており、1890年のストライキでは、労働組合への寄付を行い、雇用者側の激しい非難を浴びた。他方、彼には禁欲主義者の側面もあり、地域による禁酒運動を強く支持しており、節酒(禁酒)運動団体の代表を務めた。ギャンブルに反対し、個人的な利益を追求することにも批判的で、最高裁長官として他の判事よりも多額の給与を得ることを辞退した。

 1880年、最高裁判所の判事に任命され、86年には最高裁長官になり、法の強化、統合に業績を残した。判事としても帝国政府の内政への干渉を批判し続け、総督の権限について異議を唱えた。中国人移民制限については、植民地が移民制限をする権利があるとの判断を下した。労働時間を減らすべきだという医者の警告を無視して、1892年に死亡した。 

 山崎雅子00