オーストラリア辞典
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Holt, Harold Edward 

ホルト、ハロルド・エドワード


1908-67
シドニー、ニューサウスウェールズ、オーストラリア生まれ。
政治家、第17代オーストラリア首相(1966-67)。


 ホルトは1908年8月5日にシドニーで生まれる。両親はともに教師であったが、彼が10歳の時に離婚した。ウェスリーカレッジを卒業した後、メルボルン大学で法学を学び1930年に卒業する。卒業後、弁護士として働き、ヤングナショナリストのメンバーとして精力的に活動していた。1935年にメンジーズの後援を受け、統一オーストラリア党UAP候補として、ヴィクトリア州のフォークナーFawknerから初当選を果たす。その後、4回の当選を経て、選挙区をヒギンズHigginsに移しさらに8回の当選を果たしている。

 ホルトは1939年、メンジーズ政権で、特定の役職はないものの、大臣として初めて入閣を果たした。1940年に、オーストラリア帝国軍AIFに入隊するが、入隊5カ月でメンジーズに呼び戻され、労働および国務大臣を担当する。その後、彼は順調にキャリアを積む。メンジーズとファデンのUAP・地方党連立政権で、労働および国務大臣、科学および産業研究担当大臣、移民担当大臣などの職にあたっている。また、1956年には自由党副党首になり、1958年には財務大臣となった。

 ホルトの最初の政治的挫折は、財務大臣として行った金融引き締め政策である。これにより、失業が増加し、1961年の選挙では金融政策への反発にあい苦戦を強いられた。しかし、1966年にメンジーズが辞職した後の後継者は、明らかにホルトしかおらず、オーストラリア首相となる。彼は、白豪主義の緩和政策を行い、オーストラリアのアジアへの接近に貢献した。また、ヴェトナム戦争において、アメリカのジョンソン大統領を強く支持し軍隊派遣を行った。「LBJとどこまでも」というホルトのスローガンは、彼の立場を明確に表したものであった。1966年の選挙においては、このアメリカ支援が評価され圧倒的な勝利を収めた。しかし、ヴェトナム戦争が大規模化し、犠牲者の数が増えるにつれて、彼の政策に対する反発が強まっていく。他方、1966年2月14日には、10進法通貨(ドルとセント)を導入した。また、彼の在任中、アボリジナルをセンサスに含むことを承認する国民投票が実施された。

 1967年、ホルトはヴィクトリア中南部、モーニントン半島の先端にあるポートシーPortseaのチェヴィオト・ビーチCheviot Beachにおいて溺死し、オーストラリア史上3人目の在職中に死亡した首相となった。

 和気清彬0407