オーストラリア辞典
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Hordern, Anthony 

ホーデン、アンソニーとその一族


1819 -1876
ロンドン生まれ。
大規模な小売商人


 1819年7月16日ロンドンで生まれた。同名の父アンソニー・ホーデンとその妻アン(旧姓ウッドヘッド)の長男であった。ホーデン家はスタフォードシアの銀行一族であった。一族は父の結婚を認めず、一家はフェニックス号で、1825年3月にシドニーに辿り着いた。シドニーでは馬車大工、車大工、鍛冶屋として開業し、後に食料品商兼酒場の主人となった。彼の妻は小間物、ボンネットやコルセットの店をオープンした。彼女の成功を引き金に、父アンソニーは彼女に割り当てられた囚人だという噂が流れた。1839年にメルボルンで3つの区画を買い、後にそこに住んだ。父は1869年6月9日にこの世を去り、4人の息子と2人の娘、妻が残った。妻のアンは1871年1月18日、シドニーのダーリング・ポイントでこの世を去った。

 アンソニーはJ.D.ラングに教育を受けた。彼は1839年メルボルンに行き、1842年に町の議員となった。1844年頃、彼はシドニーに戻り、弟のレビウス(1826-1881)とブリックフィールド・ヒルで反物商を始めた。1855年にアンソニーは独立してヘイマーケットで商売を始める。彼はまた都市不動産に投資し、1869年に市議会のフィリップ区の議席を勝ち取った。1860年頃彼はダーリング・ポイントにレットフォード・ホールを建てた。1864年に彼の義理の息子ヘンリー・ブルと翌年彼の長男アンソニー(1842-1886)は会社の共同出資者となった。1869年に彼の次男サミュエルがブルに取ってかわり、会社はアンソニー・ホーデン&サンズとなった。2人の息子と2人の娘を残し、アンソニーは1876年8月21日シドニーで死去し、ルクウッド墓地に埋葬された。

 アンソニーは1841年7月17日ウィンザーで、なめし皮業者サミュエル・マーズデンの娘ハリエットと結婚していた。彼の長男のアンソニーは1842年7月24日メルボルンで生まれた。シドニーとイギリスのラグビーで教育を受け、ヨーロッパを旅行して周り、18歳の時父の会社に入った。1878年にアンソニーと弟サミュエルは30年間にわたる共同出資を決める正式な証書にサインした。1880年5月22日の『ブレティン』によると、「シドニーと植民地の一般の小売り取引を彼らはかなりの程度まで支配している」とある。1878年にアンソニーはアメリカとロンドンを訪問し、1879年にはヘイマーケットにパレス・ウェアハウスとパレス・エンポリウムをオープンした。1881年から1882年の間にイギリス、ヨーロッパ、アメリカ、中国に事務所を開いた。西オーストラリアに興味を持ち、1873年に植民地省に10,000人の移民計画を提出し、1883年には立法評議会に、政府の土地無償払い下げを条件とする鉄道の建設を提案した。後に彼は、路線の構築と移民の奨励のためイギリスにシンジケートを形成する。190,800ポンドの財産を残し、1886年9月16日、アンソニーは熱病を患い海上で死亡した。1889年に彼を記念してオベリスクが建てられたアルバニーに埋葬された。彼の遺族は、4人の子供と1864年に結婚した妻のエリザベス(旧姓ブル)であった。

 サミュエルは1849年7月14日シドニーで生まれた。フォートストリート学校、カムデン・カレッジで教育を受け、17歳の時に父の会社に入り、1886年にアンソニーの株式を158,252ポンドで買い取り、アンソニー・ホーデン&サンズ、ユニヴァーサル・プロヴァイダーズ、パレス・エンポリウム、ヘイマーケットの商店の唯一の所有者となった。1901年7月10日、ヘイマーケットは火事にあったが、サミュエルは展覧会会場を賃借りし、次の日にはそこに店を出した。1905年に彼はブリックフィールド・ヒルに新しい家屋敷を持った。4,000人以上の社員に対して寛大であり、カフェテリアや他の快適な環境を提供した。都市や郊外の土地への投資は彼の富をさらに増大させた。

 サミュエルは多くの慈善事業に個人的に寄付をしていた。連邦主義者であり、帝国主義者でもあった彼は、ドレッドノート基金に10,000ポンド寄付した。1892年にプリンス・アルフレッド・ヨット・クラブの代表となり、ロイアル・シドニー・ヨット・クラブの活動的な会員でもあった。1909年8月13日ダーリング・ポイントで死亡し、ルクウッド墓地の英国国教会の区域に埋葬された。遺族には4人の息子と4人の娘、1875年11月11日にシドニーで結婚した妻ジェーン・マリア(旧姓ブース)がいた。アンソニーの2人の息子が1878年の共同出資の証書を覆そうとした後、1910年に2,925,925ポンドの彼の財産が枢密院により是認された。サミュエルの長男サミュエル卿(1876-1956)は1912年に個人会社となった時、アンソニー・ホーデン&サンズの社長となった。

 見国祐也00