オーストラリア辞典
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Hotham, Charles

ハサム、チャールズ


1806-1855
サフォーク州、イングランド生まれ。
ヴィクトリア植民地副総督・総督(1853-1855)。


 チャールズ・ハサムは海軍士官であり、総督であった。彼は1806年1月14日英国サフォーク州デニントンにて、ロチェスターの聖職者フレデリック・ハサム、その妻アン・エリザベス(旧姓ホッジズ)の長男として生まれた。 1818年11月6日海軍に入隊し、地中海駐屯地に赴任し、1825年に中尉、1833年に部隊長へと急速に昇進した。 1842年、南アメリカ駐屯地で、蒸気小型駆逐艦ゴーゴンを指揮した。 1844年モンテヴィデオ湾で船が座礁した時、その船を再び航行させることでその頑強さと技量を示した。 1845年11月、ハサムは小艦隊を指揮してフランス軍の手を借り、パラナ川でロサス将軍指揮下のアルゼンチン軍を破った。 1846年に彼はK.C.B.になり、5月にアフリカ西海岸における提督に任命された。彼には語学の才能があったので1852年4月に、パラグアイとの通商条約交渉の責任者に任命された。通商条約の締結に成功したにもかかわらず、アバディーン内閣のハサムに対する評価は低く、1853年12月6日ニューカッスル公爵によるヴィクトリア副総督への任命を不承不承に受け入れた。

 金の発見により起こった大変化により、ヴィクトリアは最も困難な植民地ポストになった。評判の高い海軍中将の任命を植民地の新聞、市民は熱狂的に歓迎した。しかしハサムはクリミア戦争への従軍を希望していた。ハサムは6月22日メルボルンに到着した。彼はすぐに歳入を増やす必要があると痛感した。統治を強化する一方、政治的権利を拡大するとともに、金鉱の許可システムを改良することで、金鉱夫の不満を和らげようと考えた。しかしハサムは広大な直轄植民地、特にヴィクトリアの総督としての自分の地位を誤解していた。というのはその頃、新憲法がロンドンで考慮中であったからだ。ハサムは行政評議会を無視して、立法評議会と直接交渉し、全ての権限を総督に集中しようとした。彼は民主主義を支持する演説によって金鉱夫の絶大なる人気を得たが、そのやり方は権威主義的であった。

 ハサムにとって1854年のユリーカの危機は反乱であった。彼はそれを1848年英国で起こったチャーティストの会議、演説、行進と類似したものと見なした。軍事力の示威によって反抗を未然に防ごうとしたが、バララットとの意志の伝達はうまくいかず、軍隊は攻撃を開始した。彼は金鉱夫の不満に関する調査委員会をすでに設置しており、不人気な植民地長官を事実上解任したが、ユリーカの反乱者たちを赦免しなかったので、彼の人気は地に落ちた。『アーガス』紙は総督を支持していたが、『エイジ』紙は総督を批判することで急速に部数を伸ばした。またユリーカの暴動参加者は陪審裁判ですべて無罪となった。

 ハサムにとって幸運なことに、ユリーカ危機の後6ヵ月は政治的に平穏であった。 1855年3月に彼の地位は総督になった。そして帝国政府は反乱首謀者への対応はさておき、彼の反乱鎮圧の功績を讃えた。しかし彼の能力についてはすでに植民地省で疑問視する声があった。 7月に植民地改革論者のウィリアム・モールズワースが植民地大臣になると、ハサムの立場は悪化することになる。 11月ハサムはロンドンへ辞表を送ったが、官僚への不信から来る働き過ぎと、入植者の間の不人気、自己不信のなか健康を害した。 12月17日メルボルンのガス製造工場のオープニング中、彼は悪性の風邪をひいた。それがもとで31日、ブリッドポート卿の娘である、妻ジェーン・サラを残してハサムは死去した。

 見国祐也00