オーストラリア辞典
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Hovell, William Hilton

ホヴェル、ウイリアム・ヒルトン


1786-1875
ヤーマスYarmouth、ノーフォーク、イングランド生まれ。
船乗り、探検家、開拓者。


 ウイリアム・ヒルトン・ホヴェルは1786年4月、イングランドに生まれた。幼少の頃より船に乗り、1809年には船長として、南アメリカとの貿易船の舵を取るまでになっていた。1810年5月には外科医トマス・アーンデルThomas Arndellの娘、エスターEstherとロンドンで挙式した。翌年、ホヴェルはニューサウスウエールズ入植の許可を得て、土地の提供を受けた上で、家族とともにスペンサー伯号で出航し、1813年10月にシドニーに到着した。シドニーでシミアン・ロードと知り合い、彼のためにニュージーランド沿岸で貿易船運航に従事するようになった。ホヴェルはもともと商業に興味を持っていたようで、ニュージーランドとの貿易会社の設立を政府に働きかけている。しかし、ホヴェルは1816年にバス海峡の近くで海難事故に遭う。1813年に政府からナレランNarellanで土地の交付を受けていた。しかし、その土地交付は1816年に海を離れ、ナレランに住むまで発効しなかった。

 他の植民者と同様、ホヴェルはオーストラリアの探検を行い、1823年にはバラゴラング谷Burragorang Valleyを発見している。その頃、ブリスベン総督はレイク・ジョージ(キャンベラ北方の湖)とバス海峡の間の土地に公式の探検隊を送ることを計画していた。ホヴェルとハミルトン・ヒュームHamilton Humeがこの探検隊の隊長に任命され、2人は自費で探検を引き受けることとなった。そして1824年10月17日、ガニングGunningの近くにあるヒュームの牧場から出発した。政府は食料やその他の品物で彼らを支援していた。彼らは12月16日にポートフィリップに到着した。ホヴェルは自分たちがいる位置を間違えていたために、ウェスタンポートの西の海岸に到着したものと考えていたが、実際はポートフィリップのコライオウ・ベイCorio Bayに着いたのだった。この探検中に大河を渡り、これをヒューム川と名づけた。これは後のマリー川である。探検隊は1825年1月18日にガニングに戻り、ブリスベン総督は彼らの報告に従って部隊を海路、ウェスタンポートへと送った。ホヴェルも加わったその部隊はライトWright船長の下、1826年にシドニーを出発、5ヵ月後に戻った。ウェスタンポート到着時に、ホヴェルは自分の間違いに気がついた。しかし、その周辺の土地からは良質の石炭が発見された。

 ヒュームとホヴェルは報償として、それぞれ1,200エーカーの土地を与えられた。またそれとは別に、ホヴェルには、ライト隊での困難な条件下における働きを認められて1,280エーカーの土地が与えられた。実はホヴェルは、1824-25年の探検のための資金を調達するために自分の土地を売っており、繰り返し政府に対して自分とヒュームへの報償を求めていたのだった。1853年、ホヴェルは発見者としてポートフィリップに招かれた。しかし、ジロングでの夕食会でホヴェルが行った演説が誤ったかたちで報道され、そのことがヒュームに「奴は名誉を独り占めしている」という意識を抱かせたのである。そのころヒュームは、ウイリアム・ブランドWilliam Blandの著書『ポートフィリップ発見への旅』で、ホヴェルの名前が自分より先に出ているのに立腹しており、これを機にヒュームは自分の功績をアピールする本を出版した。それに対してホヴェルも本を書き、両者の出版合戦はヒュームが死ぬまで続いた。1824-25年の探検の功績は、両者に分け与えられるべきなのは明らかである。なぜなら、ヒュームは確かに奥地の探検により熟達していたが、一方ポートフィリップの位置を明らかにし、探検の報告をしたのはホヴェルであったからである。

 ホヴェルは最初の妻との間に2人の子どもをもうけた。その後1848年にソフィア・ウィルキンソンSophia Wilkinsonと結婚した。ホヴェルは1875年11月9日亡くなり、実の息子によってゴールバーンに葬られた。

 藤岡真樹1101