オーストラリア辞典
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Howard, John

ハワード、ジョン


1939-
シドニー、ニューサウスウェールズ、オーストラリア生まれ。
政治家、オーストラリア首相(1996- )。


 自由党党首であり、1996年第25代オーストラリア首相に就任、現在2期目にあたる。 1996年に行われた総選挙で、1984年から政権を担当していた労働党を破り、自由党・国民党連合が大勝し、ハワード内閣が発足した。

 ハワードは1939年7月26日シドニーで生まれ、1961年シドニー大学法学部を卒業後、1962年にニューサウスウェールズ最高裁判所のソリシターとなった。 1974年、シドニーの北西郊外のべネロング区から初当選を果たし、以後連邦議会下院議員の一員となっている。 1975年ビジネス・消費者問題担当大臣、1977年特別貿易交渉兼首相補佐、1977年から1983年には大蔵大臣を務めた。 1985年に自由党党首に選出され、野党連合リーダーとなった。 1988年にアジア系移民に関する「ハワード論争」がおこったため、1989年にこの地位を返上するが、1995年に再び自由党党首となった。

 「ハワード論争」で、ハワードはオーストラリアの移民制度は国益と合致していないという理由から、アジア移民制限論を展開した。移民・難民の出身国、受け入れ数の決定は、国家の権限内にあり、多文化主義の批判とともに「ワン・オーストラリア」論を主張した。この論争は、翌年のハワードの更迭により収束した。首相就任間もない1996年、ワン・ネイション党(1997年結成)のハンソン議員の人種差別的言動を容認するという姿勢が問題とされた。また、1997年には「盗まれた子どもたち」問題が持ち上がった。 20世紀初頭から連邦・州政府により実施された先住民の乳・幼児に対する強制里子政策へのハワードの謝罪拒否が、ハンソン議員の支持もあって、マス・メディアに取り上げられ、注目を浴びた。

 1998年の総選挙では、アジア通貨危機の中でも年率3.9%の経済成長を維持した実績を強調し、消費税に相当する10%の物品・サービス税(GST)の導入や130億オーストラリアドル(約1兆410億円)の所得税減税などの税制改革案を打ち出した。しかし、国民の反発にあい、与党連合は大幅に議席を減らす結果となった。選挙結果について、ハワード自身は「大きな税制改革を掲げた与党が勝利したのは西洋の政党の中でも初めてだろう」と評価した。

 1999年11月、英国女王を国家元首とする立憲君主制を廃し、自国で大統領を選出する共和制に移行すべきかを問う国民投票が実施された。労働政権時代の1993年にキーティング前首相が国民投票を提起したのだが、保守的政治家であるハワードは、立憲君主制の維持を訴えた。投票は、現状の立憲君主制にとどまるという結果を見た。

 中西雅子00

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