オーストラリア辞典
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Japonism, Japanism

ジャポニズム


 ジャポニズムjaponismeとは普通、日本主義(日本趣味)と訳され、欧米において、日本美術の造形的特質を自分の作品のうちに創造的に生かす態度を言う。これに対し、19世紀中頃以降に欧米で成立した日本美術への嗜好、好んで収集された浮世絵などの作品、ひいてはこれらを模写したり、これらに啓発されたりした欧米人の作品そのものを、特に区別してジャポネズリ(日本趣味)と通称する場合がある。ただし、この両者の間には必ずしも明確な区別はなく、後に詳述するオーストラリアのジャポニズムにおいてもはっきりとした区別はないといえる。

 このようなジャポニズムという傾向は幕末における日本の開国とともに現れ、おそらく初めはイギリスで、ついでフランスで流行し、19世紀末までに欧米のあらゆる国々に広がった。特に、1867年と1878年のパリ万国博覧会では日本館の出品物により日本趣味が大流行した。

 オーストラリアのジャポニズムは、1875年のメルボルン植民地間博覧会、1879年から1880年にかけて開催されたシドニー万国博覧会と1880年から1881年にかけて開催されたメルボルン万国博覧会、それに1880年代後半からオーストラリア中で公演された喜歌劇『ミカド』などの影響によって形成された。

 1875年のメルボルン植民地間博覧会は、翌年にアメリカで開催されるフィラデルフィア万国博覧会のための予行演習を主な目的として開催された。この博覧会で、日本の工芸品などがオーストラリアの一般大衆に初めて認識された。ここでは、日本の商人たちによって、古漆器、象眼細工、七宝製品、文様色付き陶器、織物及び縫い物、装身具など、約800点あまりが展示された。

 シドニー万国博覧会は、1879年にイギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ベルギー、オランダ、そして日本の参加を得て開催された。ここでは、日本の漆器や陶器、金属器における精巧な技量が称賛され、来場者たちの間で評判となった。また、同時にこの博覧会では、日本産の紅茶が割安価格で提供され、日本の紅茶の宣伝も行われた。

 1880年に開催されたメルボルン万国博覧会も、シドニーでの万国博覧会と同様、欧米列強と日本の参加によって行われた。ここでも、日本から持ち込んだすべての品々を完売するなど、多大な利益をあげ、日本会場は再び成功を収めた。特に、喝采を浴びたものとしては、文部省から出品された教材や書籍、和紙人形や磁器、銅器といったものであった。さらに、日本最初の近代的製絨所である千住製絨所から出品された羊毛製品や缶詰、製紙、鉛筆などの工業製品も展示された。

 19世紀後半のオーストラリアのジャポニズムに最も影響を与えた出来事は喜歌劇『ミカド』の広範な成功である。『ミカド』はイギリス人のギルバートGilbertとサリヴァンSullivan作で、1880年代後半からオーストラリア中で公演され始めた。劇中に白人俳優たちによって着られた日本の衣装や、舞台で用いられた日本の装粧品は、当時のオーストラリア人の間に日本ブームを巻き起こした。また、この『ミカド』の影響によって、オーストラリアにおける日本製品に対する愛好熱も加速された。例えば、1880年代の仮装舞踏会では、日本風の着物を身に纏う若い女性達を目にするのは当たり前の光景となった。さらに、『ミカド』において和風の扇子が、日本や日本人を象徴する舞台小道具として使われたため、1885年を境に日本雑貨、特に扇子や団扇といった物の輸入が急増した。

 このように19世紀後半に博覧会や喜歌劇によってもたらされた日本ブームは、西洋の絵画、特にフランスの印象派の作品に日本美術が与えた多大な影響と相まって、オーストラリアの芸術家にも大きな影響を与えた。トム・ロバーツTom Robertsやアーサー・ストリートンArthur Streetonもこうした日本美術の影響を受けた。トム・ロバーツは「L.A.エイブラハム婦人」(Mrs.L.A.Abrahams,1888)において、日本の団扇、提灯、漆塗りの盆、黄色い日本の菊を描いた。また、ストリートンも1880年から1890年にかけて日本提灯の模写や菊を題材にした作品を描いている。

 松本壮樹0704