オーストラリア辞典
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Johnston, George

ジョンストン、ジョージ


1764-1823
アナンデイル、ダンフリースシア、スコットランド生まれ。
ラム酒の反乱の首謀者の1人


 第1船団でニューサウスウェールズに到着した海兵隊の将校の1人、ニューサウスウェールズ軍団の到着後、その将校となり、ラム酒の反乱では指導的な役割を果たす。イングランド軍法会議で免職されたのち、ニューサウスウェールズに戻り、有力な地主の1人となった。

 パーシー卿(ノーサンバーランド公)の副官であった父の関係で、1776年海兵隊少尉となり、西インド諸島などで海戦に参加、その後、第1船団に加わり、レディ・ペンリン号でポートジャクソンに向かう。一説によると、彼がポートジャクソンに上陸した最初のヨーロッパ人であった。1790年、ニューサウスウェールズ軍団の到着により、海兵隊が任務を解かれると、総督フィリップは、大尉に昇進していたジョンストンに元海兵隊の部隊を編制させ、ニューサウスウェールズ軍団に統合した。1800年に少佐に昇進したが、その間、ハンターの副官やニューサウスウェールズ軍団の指揮官代理を務めた。他方、軍隊の特権に介入する総督、キングやブライと対立することもあり、1800年には蒸留酒の不正取引により逮捕され、イングランドに送られたが、裁判を受けることなく、翌年シドニーに帰還した。1804年3月、カッスル・ヒルで反乱を起こしたアイルランド系の囚人と、ヴィネガー・ヒルで対峙し、策略を用いてこれを鎮圧した。

 総督ブライは、ラム酒などの蒸留酒の交易を抑圧し、小農民を保護しようとして、ニューサウスウェールズ軍団の将校などと対立し、その性格の激しさや口の悪さ、強圧的な態度から、ジョン・マッカーサーを指導者とするニューサウスウェールズ軍団の反乱が起こった。

 ジョンストンは、ジョン・マッカーサーらの説得により、この反乱に加わり、1808年1月26日に植民地の支配権を掌握した。同年7月、本国から到着したジョゼフ・フォヴォウが指揮権を掌握するが、ニューサウスウェールズ軍団による実質的な支配は、マクウォリー総督の到着した1809年まで続いた。マクウォリー総督は、ジョンストンをマッカーサーとともにイングランドに送り、裁判に付した。

 1811年6月にロンドンで開かれた軍法会議では、ジョンストンは有罪になったが、単に免職を命じられただけであった。さらに植民地省は、ジョンストンの要請に応じて、ニューサウスウェールズへの帰還費用を負担し、マクウォリー総督にジョンストンを一般の入植者と同じように扱うことを命じた。1813年5月30日、ジョンストンはこうして植民地に帰還した。1814年、ジョンストンは、すでに彼との間に多くの子供をもうけていた囚人女性エサー・ジュリアンと正式に結婚し、その後、彼とその家族はマクウォリー総督の寵愛を受けるようになった。ジョンストンは、士官であると同時に、無償の交付土地や家畜を利用して農業をする農民でもあり、与えられた土地には、ラム酒の反乱の鎮圧によって得た、2,000エーカーやマクウォリー総督が与えた、レイク・イラワラの1,500エーカーの土地などがあり、その総面積は4,162エーカーに及んだ。1823年1月5日、ジョンストンは死亡したが、その遺体はピーターシャムのアナンデイル農場に埋葬された。そこは、初めてノーフォーク松が移植されたところでもある。

 藤川隆男00