オーストラリア辞典
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Lawn Bowls

ローン・ボーリング(ローンボール)、ローン・ボウリング(ローンボウリング)


 ローン・ボーリングは、日本ではほとんど見かけることのないスポーツであるが、オーストラリアでは、全国のほとんどすべての地域社会がその競技グリーンを持っている。その意味でオーストラリアを特徴づけるスポーツの1つであるが、競技者には老人が多い静かなスポーツなので、旅行者の目にはあまり入ることはない。1990年に、オーストラリア・ボーリング評議会 the Australian Bowls Council(現在のBowls Australia Inc.)は、2,225のクラブが評議会に加盟し、274,943名の加入者がいると報告した。同じくオーストラリア女性ボーリング評議会 the Australian Women's Bowling Councilも、2,185のクラブが評議会に加盟し、148,547名の加入者がいると報告した。実際、世界のローンボール人口のうち43パーセントが、オーストラリアにいるのである。

 19世紀初頭に、オーストラリアのローンボールは発展した。その担い手は、商人、政治家、上級公務員など、主に男性の植民地エリートであった。イギリスと同じく、オーストラリアでも「公衆用」のグリーン(競技場)は、ホテルや宿屋の近くにつくられた。こういった場所は、素手によるボクシング(bare-knuckle pugilism)、闘鶏(cock-fihgts)、猟犬によるウサギ追いレース(greyhound-coursing)、ハト撃ち(pigion-shooting)、徒競争(foot-races)などの「荒っぽい」活動の開催地と近かったため、初期オーストラリアのローンボール主催者は、わざわざその格式高さを強調していた。「公衆用」グリーンは、ホテルの用地に作られ、成功していったが、荒っぽい連中を締め出すために会費制が導入された。一方、「私有」のグリーンの設立者たちも、オーストラリアの初期のローンボールの特徴の1つである。もっとも有名なものは、おそらく1878年にジョン・ヤング卿によってつくられたものである。

 1864年に、メルボルン・ボーリング・クラブという最初のクラブが設立された。会費は年に1ギニー(21シリング)で、男性労働者の収入が週に5シリングから10シリングという時代には、かなりの高額であった。また、メンバーは道具などを自弁しなければならず、これもかなり高額であった。当時ボールは高価な輸入材で作られていた。しかし1900年頃までは、選手は普段マットを使わず、特別なユニフォームも着ないで、たいてい気楽に帽子をかぶり、フロックコートを着て競技を行った。しかし、20世紀にはローンボールへの参加はさらに高価な娯楽となった。

 19世紀のローンボール・クラブの設立は、オーストラリアでゲームが発展する基礎となった。しかし、この白人男性によるクラブにも例外があった。ヴィクトリアのストーで、1881年にはすでに試合に参加していた女性たちが、1896年に女性によるトーナメントを開催したのである。同様に1899年に8人の女性によるコラク・クラブ the Colac Clubが設立されたが、これはのちに男性のクラブになった。またもうひとつの例外として、ヨーロッパ人が支配的であった初期のローンボールに、1866年、アボリジナル・クリケット・チームが招待された。1900年までは、中流階級の白人男性が支配的であったが、1900年以降の女性限定のクラブや協会の設立は、女性の参加を大いに促した。また、男性のクラブの多くが女性にも門戸を開いた。結局、オーストラリア女性ボーリング評議会が1947年に設立され、1949年には最初の大会がシドニーで行われた。

 ジョン・ヤング卿は、オーストラリアにおけるこのスポーツの発展に大きく貢献したとされる。彼は1901年にイギリスとオーストラリア植民地との最初の競技会を開催するのに貢献した。また、1880年のヴィクトリアとニューサウスウェールズの最初の植民地間の試合を手配したとも言われている。この試合に刺激され、各地でローンボールの協会が作られた。そして1911年には、オーストラリア・ボーリング評議会が設立された。こうした国間、植民地(州)間の試合では、ルールの違いが大きな問題となった。20世紀にはオーストラリアが主導してルールの統一化が行われ、ローンボールが世界中に広まるのに大いに役立った。

 20世紀のローンボールの発展は劇的であり、オーストラリアの社会や文化の変化に密接に関連していた。ヴィクトリア州とニューサウスウェールズ州は、多くのローンボール人口を抱え、クラブの拡大は他の社会の発展と平行していた。1900年から1920年まで、両州でクラブの数は安定した増加を見せていた。1930年代の恐慌期においてもわずかながら増加していた。しかし1946年から1955年までの発展は、まさに劇的であった。これは、復員した軍人や、戦後オーストラリアに来た大量の移民が関係している。しかし1965年以降、目立った増加はなくなった。

 戦後の成長は、新しいクラブの設立に限ったことではなかった。多くのクラブは、競技場やクラブハウスだけでなく、その他の施設をメンバーとそのゲストのために修復し、拡張した。都市郊外や、1990年代にはアウトバックの地域社会にとって、ローンボール・クラブは社会的、文化的に大切な集合場所となった。これらのクラブの社会的な役割に主な影響を与えたのは、飲酒関係法である。最近までクィーンズランド州では、ボーリング・クラブはクラブ外の顧客に酒を販売することを禁じていた。試合がない日はクラブ内でも酒を提供できなかった。また、試合がある日でさえ、夜8時までしかアルコールを提供することができなかった。

 もうひとつの大きな変化は、プロの登場である。それまで選手権やペナント競技会に出ることは、選手にとって大きな出費であったが、スポンサーの登場やテレビ放映によって、プロはアマチュアと区分されるようになった。加えて他のスポーツと同様に、プロの登場によって、競技の場所が伝統的な芝生のグリーンから、芝生が安定しており天候に左右されにくい、人工芝のグリーンへと変化した。

 変化は今でも続いている。ローンボールは老人だけのスポーツと見られているが、かならずしもそうではない。こういった先入観を拭い去るために、最近では様々な試みがなされている。例えばクィーンズランド州では、「若者の日」を設けて、若い人たちにローンボールに親しんでもらおうとしている。また南オーストラリア州では、学校のカリキュラムでローンボールの教育を導入しようとしている。このスポーツが現在まで生き残り、成功しているのは、おそらくこれが肉体の接触をともなうゲームではなく、年寄りにも年少者にも適し、身体に障害を持つ人でも容易にプレイを楽しめるからである。

 山口典子00