オーストラリア辞典
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Lawson, Louisa

ローソン、ルイーザ


1848-1920
ニューサウスウェールズ生まれ。
フェミニスト、ジャーナリスト、社会改良家。


 オーストラリア初の女性のための雑誌を創刊し、「女性参政権の母」として女性の権利を追求した活動家である。

 1848年2月17日、マジーに近いガンタウォングGuntawangの貧しい農家に生まれ、マジー公立学校で教育を受けた。聡明であったルイーザには教育実習生への道が提示された。しかしルイーザの母親はその必要を認めず、ルイーザの意に反して、妹や弟の世話や家事を行わせた。1866年、母親から逃れるかのように、18歳のルイーザはノルウェー生まれのニールス・ハーツバーグ・ラーセンNiels Hertzberg Larsenと結婚した。2人の間には7人の子供が生まれた。短編小説家として知られるヘンリー・ローソンHenry Lawsonが生まれた1867年に、名前を英国風のローソンと変えている。

 1883年、結婚生活が破綻し、ルイーザは子供とともにシドニーへ移り住んだ。『リパブリカン』Republican(のちの『オーストラリアン・ナショナリスト』)を1887年に買収、翌年には『ドーン(夜明け)』Dawnを創刊した。『ドーン』はオーストラリア初のフェミニスト雑誌と言われており、女性問題をテーマとし、女性参政権の追求や女性の社会進出などを謳っていた。しかしながら、事業は必ずしも順風満帆ではなかった。『ドーン』の制作に10人の女性が雇われたが、この中に女性の印刷工が含まれていた。このためにルイーザたちは、女性組合員を認めないニューサウスウェールズ印刷組合から営業妨害や嫌がらせを受けた。しかし『ドーン』は、地元に圧倒的な読者層を持ち、他の植民地や海外においても定期購読者を獲得していった。1888年5月、ルイーザは女性参政権獲得運動に乗りだした。その一環としてドーン・クラブを設立し、定期的に女性が集まって「生活や仕事、改革にまつわるあらゆる問題」を議論する場を設けた。またシドニー技術者学校のディベート・クラブに彼女の入会を認めさせ、他の女性メンバーにも参加を促した。1893年には同クラブ初の女性委員に選ばれている。

 しかしルイーザに対するより厳しい反発は、女性運動家の中からこそあらわれた。なぜなら、女性運動家の多くは中流階級に属していたが、彼女たちの目には、ルイーザが労働者階級的な生活を送る急進主義者として映ったからであった。1891年にローズ・スコットRose Scottと、ドーラ・モンティフィオーレDora Montefioreが、ニューサウスウェールズ女性参政権連盟The Womanhood Suffrage Leagueを設立したとき、彼女たちはルイーザの参加に否定的であった。結局、著名な男性改革者のシンプソンJ. N. Simpsonが、ルイーザの参加を要請した結果、消極的ながらルイーザを評議会のメンバーとして迎え入れることとなった。ルイーザ自身も決して頻繁に会合へは出席しなかったが、『ドーン』の事務所を提供したり、無料で出版物を印刷したりと活動への支援は惜しまなかった。しかしやはり、「ずる賢い男性によって制定された悪法から世界を取り返す」ために女性は投票権を必要とする、という彼女の主張は好意的なまなざしで迎えられることはなかった。友人のウィンディーア婦人Lady Windeyerが連盟会長を辞任した1893年に、ルイーザも評議会から退いた。しかし経済的支援は続け、各種出版や『ドーン』誌上での広報活動を行った。1902年、新しく設立された連邦議会において、アボリジナルを除く全ての国民に参政権を認める法案が通過し、女性参政権が実現した際に開かれた祝宴会では、ルイーザは参政権獲得運動の母として歓呼のなか迎えられた。

 1901年に路面電車からの落下事故に遭い、1年間の療養を強いられていたが、翌年、ルイーザは女性革新協会において公職への女性の登用を求める政治活動を再開した。しかし事故後、ルイーザは『ドーン』を成功に導いた精力と創意を失い、誌面はマンネリ化し小記事が並ぶだけとなった。広告は減少し、1905年に『ドーン』はついに廃刊となった。その後ルイーザは、詩の出版や多くの短編小説などを手がけ、1920年にグラデスヴィルGladesvilleにある精神病院で息を引き取った。国際女性年間にあたる1975年、6人の偉大なオーストラリア人女性の1人として、ルイーザ・ローソンは切手のデザインに選ばれている。

 藤井秀明1101