オーストラリア辞典
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Light, William

ライト、ウィリアム


1786-1839
ケダー、マレー半島生まれ。
兵士、測量技師。


 イギリス出身の父と、ポルトガル系の混血女性マーティナ・ロセルズの間に、1786年4月27日に誕生する。彼が生まれた年は、イギリスの東インド会社がペナンを占領した年であった。貿易商である父の仕事の関係で、幼少のころはペナン半島で過ごしたが、6歳のころ、教育を受けるためイングランドに渡った。1799年に海軍に入り、2年間を士官候補生として過ごしたが、海軍除隊後にフランスを旅行中に戦争が再び勃発し、ナポレオン政府に拘束されて捕虜となった。1804年の1月に脱走し、インドで一時滞在した後に、陸軍の将校としてナポレオン戦争などに従軍した。そこでは主にスペインでイギリス軍とスペイン人ゲリラとの間の連絡役、偵察の任務に従事した。1821年に陸軍を少佐で退役したが、すぐに再びスペインに渡りフェルナンド7世に抗する革命軍に身を投じた。1824年にはリッチモンド公の3女と結婚し、ヨーロッパ各地を旅行した。また、西洋式の方法でエジプトを近代化しようとするムハマド・アリと親交を結び、エジプト海軍の設立に協力した。半島戦争での経験を買われ、チャールズ・ネイピアからオーストラリアの総督に推挙されたが、任命されたのはハインドマーシュであった。ライトはこれに替えて、年給400ポンド、首都の選定の権限を得て、南オーストラリアの測量長官の職を得た。

 1836年、ライトは南オーストラリアに到着し、1,500マイルもの海岸線の測量、首都アデレイドの場所選択、設計、測量を始めた。ライトは同年の秋に、マウント・ロフティー・レインジの西の肥沃な土地を予定地として定めたが、総督ハインドマーシュは、ライトの選択した首都の位置を海岸線から6マイルも離れているという理由で反対し、ライトの活動を妨害した。最終的にライトの案は通り、翌年の3月までに予定地の1,042エーカーの土地の測量が完了した。しかし、設備や資金、人材も不足し、さらに短い期間での測量の完成を要求されたため、南オーストラリア会社役員と対立し、1838年に職を辞した。彼の後任には新たな総督であるジョージ・ゴーラが任命した、チャールズ・スタートが就任した。しかし、ライトの設計したアデレイドのデザインは、時代の最先端を走るもので、碁盤目状にデザインされたシティと、その周辺の広大なパークランド(公園)の配置は、世界的に知られるようになり、アデレイド市民の誇りとなった。

 ライトは、それ以降政府への協力はしなかったが、個人的に測量技師としての仕事を続けた。しかし住居が火事になるなどの不運にも見舞われ、1839年の10月6日に結核によって52歳で亡くなった。彼の希望どおり、「アデレイドの建設者」という銅版をつけて埋葬された。

 山崎雅子0901