オーストラリア辞典
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maritime exploration of Australia

オーストラリア探検航海


 ヨーロッパ人が初めてオーストラリア大陸の存在を知ったのは、ウィレム・ジャンスWillem Jansz率いるオランダ東インド会社船ダウフケン号Duyfkenが、ニューギニア南岸からヨーク岬半島の西岸に到達した1606年3月であるといわれる。同年9月、ルイス・バエス・デ・トレスLuis Vaez de Torres指揮する2隻のスペイン船が、トレス海峡を東から西に通過しており、おそらく大陸とは知らずにヨーク岬を目にしたと思われる。

 まもなく、オランダ人は、喜望峰から東に向かってインド洋の南方をジャワの経度あたりまで進み、そこから北に向かう進路を公式に採用するようになり、これにより、オーストラリア西海岸に偶然到達する可能性が高くなった。1616年、ダーク・ハートグ率いる船が、東に進みすぎてカナーヴォンの近く、シャーク湾沖の島に着き、彼はそこに白目製のプレートを残した(プレートは、81年後、ウィレム・デ・ブラマングに拾い上げられている)。

 その後、ピーター・ノイツPieter Nuyts (1627年)やエイバル・タズマン(1644年)らの探検航海により、オランダ人は、カーペンタリア湾からノースウェスト岬Northwest Cape、西海岸南端のケイプ・ルーイン(ルーイン岬)を経て、グレイト・オーストラリアン・バイト沿岸のセデューナCeduna近く、ノイツ群島Nuyts Islandsあたりまでの地理をおおまかに把握するようになる。1642年にタズマンは、東インド総督アントニオ・ヴァン・ディーメンAntonio van Diemenの命によりバタヴィアを出帆し、南緯50度近くまで南下した後、東進してタスマニアを発見した。タズマンはこの島を、ヴァンディーメンズランドと命名した。さらにタズマンは東へ向かい、ニュージーランドに到達する。翌43年にはトンガを発見し、ニューギニア北岸に沿って航行してバタヴィアに戻り、遠回りながらオーストラリア大陸(当時は、ニューホランドと呼ばれた)周航を果たす。しかし、荒涼とした土地が広がる大陸に商業的価値を見出せなかったオランダ人は、この後、大規模な航海探検を行わなくなった。

 オーストラリアにたどり着いた最初のイングランド人は、1622年にノースウェスト岬沖のモンティーベロウ群島Montebello Islandsで難破した東インド会社船トライアル号Tryall (Trial)の乗組員である。1688年には、海賊(バッカニアbuccaneer)ジョン・リードJohn Read率いる私掠船が、キング・サウンドKing Soundを訪れているが、乗組員だったウィリアム・ダンピアは、この時の航海の様子をA New Voyage Round the World (1697年出版)のなかに書き記している。ダンピアは、1699年には船長として、オーストラリア北岸のピルバラPilbaraを訪れている。

 オランダ人が試みなかった大陸東岸の探検を行ったのが、ジェームズ・クックであり、エンデヴァ号での第1回航海中の1770年4月に、同行していた植物学者ジョゼフ・バンクスが命名したボタニー湾に投錨する。ここは、1788年に最初のヨーロッパ人入植地となる。この後、ポートジャクソンを通過し、さらに北上してグレイト・バリア・リーフに到り、現在のクックタウンを経て、トレス以来およそ160年ぶりにトレス海峡をぬける。そして、東岸一帯は、ニューサウスウェールズと命名され、イギリス領に加えられた。

 入植が始まると、シドニーを拠点に探検が行われた。1798年に、ジョージ・バスとマシュー・フリンダーズが、ノーフォーク号でバス海峡を通ってタスマニアを一周する。フリンダーズは、1801-02年にインヴェスティゲイター号でオーストラリア南岸の探検を行い、ケイプ・ルーインを出発して東に航行し、1627年にノイツが到達した地点を越え、スペンサー湾、セント・ヴィンセント湾St Vincent Bay、カンガルー島などを発見した後、エンカウンター湾において、バス海峡から大陸南岸を探検航海してきたフランス人ニコラ・ボーダンと遭遇する。さらに航海を続けてシドニーに到着した。さらにフリンダースはシドニーを出発し、測量を続けながらオーストラリア東岸を北上し、オーストラリア周航を目指した。ヨーク岬、カーペンタリア湾を通過して、アーネムランドに到達したフリンダースは、その後も航海を継続し、反時計回りにオーストラリアを一周して、1803年6月9日にシドニーに再び戻ることができた。彼の航海記のタイトルA Voyage to Terra Australis(1814年出版)が示すように、この頃からオーストラリアという名称が徐々に定着していった。

 宮崎章・藤川隆男0503