オーストラリア辞典
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Mitchell, Thomas Livingstone

ミッチェル、トマス・リヴィングストン


1792-1855
スコットランド生まれ。
測量長官、探検家。


 1792年6月15日、スコットランドのグレンジマウスに生まれる。家は貧しかったが十分な教育を受け、数カ国語に通じるようになる。1811年に陸軍少尉となり、半島戦争に従軍する。そこでジョージ・マリーの目に留まる。1826年少佐に昇進するが、予備役となり給料が半減する。そこで翌年、マリーの推薦により、オクスリーの後任として測量長官に就任する条件で、ニューサウスウェールズの副測量長官に就任した。

 1827年に家族とともにシドニーに到着すると、植民地全体の体系的な測量を開始する。翌年病気で衰弱していたオクスリーが死亡すると、測量長官の地位につき、29年には道路と橋の建設の責任者、30年には測量庁を単独で統括する責任者となった。また、シドニーからリヴァプール、ゴールバーンに通じる道路を整備し、バサーストに至る新しい道路を築いた。この道路建設は総督との対立を招いたが、ダーリング総督が召喚されたので、彼の地位は安泰であった。そのうえ総督代理を説得し、31年北東に流れる内陸の大河の探検に出発し、現在のモーリーの辺りまで探検した。1834年、ミッチェルは植民地大臣スタンリーの求めに応じて、植民地を19県(county)に分割した地図を提出した。

 1835年3月ミッチェルは、ダーリング川とマリー川の合流点を探す探検に出発する。しかし、メニンディーの辺りまで進んだところで、アボリジナルと戦いになり、所期の目的を達せずに帰還した。36年の探検はこの探検の継続を目的としたものであったが、再びアボリジナルと遭遇し、多くのアボリジナルを殺害した、その後ダーリング川に到達するが、今回もダーリング川とマリー川との合流点の確認はできずに、さらに南下して現在のヴィクトリアを縦断した。ミッチェルは、その豊かさに感動して、ここをオーストラリア・フィーリックスAustralia Felixと名づけた。その後ポートランドでヘンティ一家に出会った後、シドニーに帰還した。探険中、ミッチェルは測量を同時に行い、新たに顕著な発見はできなかったものの、急速に拡大しつつあった牧羊業は、彼の足跡を追うようにして発展した。

 1836年12月、マウント・ディスパーション近くでの、アボリジナルの虐殺に関する行政評議会の特別調査委員会が開かれたが、ミッチェルは罪を問われることはなかった。翌年、ミッチェルは一時帰国し、ナイトの位を求めて運動した。その間、探険について著したThree Expeditions into the interior of Eastern Australia を著した。結局、ナイトの位とオクスフォードの名誉博士号を得て、1841年オーストラリアに帰着した。

 1840年代に大きな不況に見舞われた植民地では、測量庁の人員、予算ともに大幅に削減され、後の金発見に始まる土地需要の増大に対応することができなくなった。44年4月、ミッチェルはポートフィリップの補欠選挙で当選し、立法評議会議員となった。しかし、総督ギップスは議員としての独立は認めつつも、役人としての忠誠も同時に要求し、その両立を不可能と感じたミッチェルは、8月に辞任した。

 1845年12月、ミッチェルは4度目の探険、北西に流れる大河とポート・エシングトンへの道を探す探険に出発する。しかし、今回もその目的を達せずに探険は終わるが、現在のニューサウスウェールズからクィーンズランドの西部の広大な土地の測量を行った。

 1847年から48年にイングランドに再び戻り、 Journal of Expedition into the interior of Tropical Australia を著した。1851年9月27日スチュアート・ドナルドソンと、オーストラリア最後と言われる決闘を行っている。1852年にはブーメランの原理を利用した船の推進器の実験に成功し、その実用化のために再び1年の休暇を得てイングランドへ向かった。54年に帰国、翌年に総督デニソンによって測量庁に対する王立調査委員会が設けられ、調査が行われている最中に、ミッチェルは10月5日肺炎のために死亡した。

 ミッチェルに行政手腕はなく、下級の役人と常に対立した。彼には多くの野心と関心があり、測量庁で過ごす時間は十分ではなく、しかも部下に権限を委任することを好まなかった。しかし、測量の遅れはミッチェルにだけ責任があるわけではなく、不十分なスタッフと過大な任務を考えれば、やむをえない面もあった。1855年までに測量庁は人々に批判されるようになったが、ミッチェル個人はめったに批判されることはなく、大衆的人気を保ち続けた。おそらく、その要因は、彼が常に総督と不仲であり、土地はスクオッターに独占されるべきではないという考えを主張し続けたところにある。

 藤川隆男00