オーストラリア辞典
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Nathan, Isaac

ネイサン、アイザック


1790-1864
カンタベリ、イングランド生まれ。
音楽家


 ウィリアム・ウォリスと並んで、植民地時代オーストラリアの音楽活動の発展に貢献した人物。

 アイザック・ネイサンは、聖歌隊先唱者、メネム・モナの長男として1790年に生まれた。モナはポーランドからの亡命者で、彼自身はポーランド最後の国王スタニスラフ2世の息子であると信じていた。ネイサンは早くから音楽的才能に恵まれ、1809年には、ロンドンの有名な音楽家であるドメニコ・コリのもとに弟子入りしている。 1812年には、弟子の1人であるロゼッタ・ウォーシントンと駆け落ちした。 1814年には、有名なバイロン卿にヘブライ人を主題とした連作詩を書くように説得し、それを古代ユダヤ聖歌風の曲に仕立てた。この「ヘブライ人のメロディ」は高く評価されたが、バイロンのイギリスからの逃亡、ネイサンの弟子であったウィリアム4世の息女シャーロット王女の死により、ネイサンは貴族のパトロンを失うことになった。その後続く苦しい生活の中、彼は「恋人と妻たち」のようなオペレッタを作曲し、また1823年にはロンドンで後にMusurigia Vocalisと呼ばれる著作を出版し、ヨーロッパにおける名声を得ることになった。

 ネイサンの妻ロゼッタは、1824年に2人の息子と4人の娘を残して亡くなり、1826年にネイサンはヘンリエッタ・バクリと再婚した。大家族を支えていくために、ネイサンはジョージ4世の諜報員として働いた。また、1837年にはウィリアム4世がネイサンに密命を与えているが、その内容は不明である。しかし、その妻がネイサンの昔のパトロンの1人であった首相メルボルン卿は、彼が主張する2,000ポンドの支払いを拒絶した。彼は破産し、家族全員を連れてオーストラリアに向かった。

 1841年4月、ネイサン一家はシドニーに到着し、その地ですぐに歌唱学校を開いた。ネイサンはセント・メアリー聖堂の合唱指揮者になり、植民地最大規模の宗教音楽のコンサートを開いた。ネイサンは荘厳歌、「広大かつ自由なるオーストラリア」を、シドニー市議会の開設を祝うディナーのために作曲した。また、2つの合唱頌歌「ヴィクトリアよ永遠に」と「南の星を讃えよ」を、それに続く式典のために作曲した。その後もネイサンは植民地における音楽的栄誉を担った。その後、探検家ライカートの消息不明の報を聞いて、「ライカートの墓」を作曲した。ライカートが無事帰還すると、「帰還を祝す」を作曲し、その無事を喜んだ。また、ブロートン主教のために祈祷曲を作曲、1847年には、ロマン的オペラ「ドン・ファン・デ・アウストリア」も彼に送っている。 1849年には、『南のエウプロシェネ』をロンドンとシドニーで同時出版した。その本の中では、アボリジナルとその音楽に関する箇所が最も興味深い。アボリジナル音楽の翻訳、編曲はネイサンが最初に試みたものであった。その中で最もよく知られるのは、Koorinda Braiaである。残念なことだが、その後出版された『オーストラリアのメロディ』では、先住民の曲をヴィクトリアのバラッドとして扱った。

 またネイサンは、ランドウィクにバイロン・ロッジを建てたが、1864年1月15日、鉄道馬車から降りようとして事故死した。彼の2番目の妻は1898年に亡くなっている。その長男、チャールズは、王立外科医カレッジF.R.C.S.の名誉会員であり、また、シドニー診療院の外科医であり、麻酔学の先駆者でもあった。

 中村武司0601