オーストラリア辞典
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Ned Kelly and the Kelly Outbreak

ネッド・ケリー、ケリー・ギャング


 ネッド・ケリーは19世紀後半のオーストラリアで最も有名なブッシュレンジャーである。窃盗、強盗、殺人に至る様々の悪行を犯し処刑されたが、不思議と民衆には人気があり、彼の生きざまは多くの小説、演劇、民謡、映画、絵画などに取り上げられた。彼の勇敢ぶりはヴィクトリアやニューサウスウェールズの農村の貧困者の間で大きな共感を巻き起こし、‘as game as Ned Kelly’「ネッド・ケリーのように勇敢に」という表現が一般化した。彼の名声の持続は、ネッドとその一味がオーストラリア人の精神に深い影響を与えているということを認識することによってのみ適切に説明される。ケリー・ギャングの話は、警察と争う汚れた犯罪者集団の物語というより、辺境社会のより深い心の琴線に触れるものである。

 ネッド・ケリーの生きざま、死にざまがケリーの伝説に素材を与えている。しかし、神話とはこれ以上のものを要求する。いまだネッド・ケリーに与えれれている神話的な地位は、生前ですらネッドが単なる逃亡中の犯罪者よりもはるかに多くのことを演じたという事実に基づいている。ネッドとその一味は意図的に、農村社会の最下層の人々の生活環境に対する根深い不満の代弁者となった。

 権力者たちはこの代弁者の危険性を認識していたため、セレクターを犠牲にして裕福なパストラリストの利益を保護した、権力者や腐敗した地域の警察が彼をしつこく追求した。この取るに足りない家畜泥棒がやがて社会的な盗賊になるのは、彼の家族の受けた迫害のためであった。

 エドワード(ネッド)・ケリーは、1855年にアイルランド系の両親の長男として生まれた。父親のレッド・ケリーはかつてヴァンディーメンズランドで服役したアイルランド囚人であった。父親の死後、権力に対し常に対峙している母方のクイン一族の中で育った。彼の家族は貧しいセレクター(小農民)階級出身で、ほぼ絶えまない警察の注意を引きつけるほど、すでに家畜泥棒というレッテルを張られており、一族は自分たちを警察の迫害の犠牲者だと考えていた。 10代の初めからネッドは農村の犯罪者階級の周縁におり、手先が器用なことから窃盗に手を染めた。彼はハリー・パワーという名のブッシュレンジャーと、パワーが捕まるまでパートナーを組んでいた。また、彼はクイン家出身の叔父の盗んだ家畜の取り引きに巻き込まれていたように思われる。ケリーはベアナックルファイターであり、背の高い丈夫な体格の若者へと成長した。 14歳で初めて起訴され、15歳の時3度目の逮捕で有罪宣告を受けたネッドは、16歳の時、腐敗した地域の警察によって宣誓された偽りの証言に基づき、馬の窃盗で刑務所に入れられた。メルボルンのペントリッジ刑務所Pentridge Prisonでの3年の重労働を宣告されたのだ。 1874年、19歳の時釈放された。ケリーは犯罪行為から足を洗おうとし、材木市場で働いていたが、1876年に母の再婚相手ジョージ・キングが企てた馬の窃盗に加担して、さらに大規模な家畜窃盗に手を広げた。警察のクイン一族に対する目は一層厳しくなり、特にケリーは主要なターゲットとされた。

 1860年代の4つのヴィクトリアン・セレクション法により、植民地北東地域での人口の急速な増加が生じた。ケリーが生きたベナラ地域は住人の数が倍増し、1870年代初頭までに10,000人に達した。その法律によってまた、多くの辺境の土地が農産物を生産するようになった。その結果、小麦、オート麦、干し草、じゃがいもが市場へ売りに出された。しかしながら、セレクション・プロセスのマイナス面は、深い社会的対立を生んだことであった。裕福なパストラリストたちは制限なく土地所有を拡大し、障害もなく家畜経営を行ってきた。貧しい小規模農場主の進出は、パストラリストたちに恨みや怒りを残した。これらの小農場主がパストラリストたちの経営する何千何百の羊たちの中から羊を盗んだり、ニューサウスウェールズまたは南オーストラリアの市場で売るために牛を盗んだ時、パストラリストたちはセレクターたちのことを法を尊重しない犯罪者階級だと主張した。

 パストラリストたちは低賃金の地域の警官たちの協力を得た。パストラリストたちは、家畜窃盗罪によるセレクタ?の逮捕に報酬を支払った。報酬は後に法廷で罪が確定されたかどうかに関わらず支払われた。パストラリストと警官とのつながりは非常に親密であったので、警官は大土地保有者の手先同然であった。実際にパストラリスト寄りで、地域の警察のメンバーからの偽証を難無く受け入れる地域の治安判事の前にやってきた時、セレクターたちは自分たちがひどい不正を受けたのだと感じた。

 1878年4月、騎馬警官のアレクサンダー・フィッツパトリックの来訪が、ケリーを社会的盗賊へと変貌させた。ケリーとその母エレン、弟のダンたちが巡査を射撃しようとしたという疑いをかけられたのである。兄弟はある午後家へ戻ると、妹が暴行されているのを発見したと主張した。それに続く対決で、彼らがピストルを抜き発射したと警官は強調した。ネッドは、事実は彼が警官を徹底的に殴ったことであり、ピストルの話はでっち上げだと断言した。母親は逮捕され有罪判決を受けた。ネッドとダン・ケリーはブッシュへと逃げ込み、そこでジョー・バイアン、スティーブ・ハートの2人の友人が仲間に入った。ケリー・ギャングが集まったのだ。

 全国的悪名と伝説的地位への彼らの昇進は、一味を捕獲するため警察が騎馬警官の一団を送りだした1878年に始まった。2組の騎馬警官隊がケリーを撃ち殺す目的でウォンバット地区で一味の捜索をしていた。ネッドはストリンギーバーク・クリークStringybark Creekで騎馬警官隊を待ち伏せ攻撃して3人を殺し、ケリー・ギャングには500ポンドの賞金が懸けられた。セレクター社会はネッドに警察の動きを知らせ続け、一味に食料品や生活必需品を供給した。アウトローたちのブッシュマンシップは素晴らしく、騎馬警官の一団よりもはるかに熟練していることを証明した。

 ネッドとその一味は11月初頭にヴィクトリアのユーロアで銀行強盗を犯し、続いて1879年2月にニューサウスウェールズのジェリルデリーで2番目の銀行に押し入り、懸賞金は8,000ポンドまで跳ね上がった。これら両方の事件において、ネッドは虐げれれた者の代弁者の役割を強調した。町の通りで火をたき、銀行の金庫で見つけた債務証書を全て焼き払ったのだ。強盗の収入はまたセレクターの間にいたケリー支持者の手に入った。続く数カ月にわたり未払いの負債が最も思いがけない人々により、突如現金で全額支払われたという記録がある。続く6ヵ月間一味はヴィクトリア北部の山地に身を隠した。警察の捕獲を逃れるにつれて彼らの名声は上がり続けた。

 1880年にグレンローアンで起こった一味の逮捕劇は複雑なものだった。バイアンの友人のアーロン・シェリットに警察のスパイではないかという容疑がかかり、バイアンの手で彼は殺された。この殺人をきっかけにベナラにある本部から警察が列車で向かって来た。列車を脱線させ、乗っている者を待ち伏せ攻撃することを決めた時、ネッドの命運はつきた。また、彼が当時ノーザン・ヴィクトリア共和国の独立を宣言し、その新たな国を守るために武装した支持者の軍を集めようとしていたという証拠がある。一味は町の住民を拘束していたが、その中の地元の教師をその病気の妻の世話のために解放した時、グレンローアンの包囲攻撃が始まった。その教師は一味が止めた脱線部分に列車が到達する前に旗を振って列車に止まれと信号した。兵隊は下車し暗闇の中グレンローアン・ホテルへと行き、そこで重たい自家製甲冑を身につけた一味と遭遇した。ネッドはその甲冑が警察からの射撃を無力にすると信じていたが、その甲冑は腰までしかなく頭部は金属製のヘルメットで包まれていたが、腕は覆っていなかった。それは重大な戦術的過ちであった。というのは、彼の最も効果的な武器である機動力を犠牲にしたからであった。

 ホテルの前の最初の銃撃戦でネッドは右手とひじにひどい傷を受け、他のメンバーもまた傷づいた。一味はホテルの中へと退却し全面包囲が確立された。伝説によると彼はホテルを抜け出し、助けに来ないよう、権力者たちが気づく前に解散するよう支持者に警告した。それから彼は出血多量で気を失った。彼が意識を取り戻した時戦闘はまだ続いており、ネッドはブッシュから攻撃する者の後方へとよろめき歩いた。彼は自分の甲冑の胸当てにピストルを当て、警官を挑発した。彼は警官の列に近づき、銃撃の雨の中へまっすぐ向かっていった。結局彼は足に向かって打たれたショットガンにより倒れ、警官に捕らえられた。バイアンは射殺され、弟のダンとハートは警察が焼き払ったホテルの中で焼死した。

 メルボルンから来た報道記者により、ブッシュで意識を取り戻した時、どうして逃げ出さなかったのかと質問された時、彼は「仲間を見捨てられるほど立派なディンゴになれればなあ」と端的に答えた。

 逃亡の可能性は単に理論的なものではなかった。ネッドの馬は銃撃の中へと駆け込み彼を探しにやって来た。馬は彼を見つけ、そしてひどく傷づいたアウトローは馬に乗り逃げることができた。しかし馬が彼へと駆け寄った時、ネッドが手を振って追い払った。警察の射撃の名手が馬を撃ち倒した。しかしながら再び馬は戦いの中をなんとか進み彼の元へとやって来た。ネッドは再び追い払った。そこで馬は包囲攻撃から伝説の中へと駆け出していった。

 裁判で彼は即決の判決を受けた。裁判官のレドモンド・バリーRedmond Barryは陪審員に誤った指示を与えた。その点に対し後のヴィクトリア裁判が裁判は茶番劇であり、ネッド・ケリーは不公平な裁判手続きの犠牲者であったと主張している。 60,000人の署名を含む赦免を乞う請願書にもかかわらず彼は死刑を宣告され、1880年11月11日ペントリッジ刑務所で絞首刑にされた。ペントリッジで服役中であった彼の母親は、死刑囚用の独房にいた彼を訪ねた。彼に対する母親のアドバイスは次のようであったと伝えられた。 ‘Mind you die like a Kelly, son’(「息子よいいかい、ケリー家の者らしく死になさい」)。

 ケリーは独力で死刑台に上がり、死の寸前に次の言葉を発した。 ‘Such is life...OR...I suppose it had to come to this’(「人生とはこんなものさ・・・ああ・・・こういうふうになると思っていたよ」)

 彼は26歳であった。最近、この時処刑されたのはダンでケリーは生きながらえたという説も出されている。

 ネッド・ケリーは農村の貧者、負け犬の王者、無防備な人々の保護者として内陸部オーストラリアの神話となった。彼は最も広く敬慕されるブッシュマンの特性を兼ね備えていた。すなわちその特性とは、どんな犠牲を払っても貫いた仲間への忠誠、逆境に直面した時の勇気や勇敢さ、生き残るための機転や能力、警官への軽蔑、彼より社会的地位で優れた者の手が届かないほどの名誉ある生き方、死に方である。

 見国裕也1101