オーストラリア辞典
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netball

ネットボール


 女性のバスケットボールとしてオーストラリアで知られていたゲームは、1970年になって初めて公式にネットボールと呼ばれるようになった。ネットボールは比較的新しいスポーツで、バスケットボールを起源としている。ネットボールへの改変は、1895年アメリカ人のトール博士が、イギリスのバークマン・オスターバーク体育大学に、バスケットボールの指導に来たときに始まった。大学がダートフォードに移転し、そこでバスケットに代って網のついた鉄のリングがゴールに使用されるようになり、ゲームは3つの部分に分けられたコートを持つ野外の草地で行われた。限られた領域と、当時の女性が着ていた衣服では十分なスピードが出せず、ゲームは競争というよりむしろ協力を基本とするものであった。 1906年にThe Game of Netball and How to Play it と題された本が、リング・アソシエイションより出版された。その本に書いてあるキーポイントはこうである。チーム編成は、5人制、7人制、9人制があり、5人制と7人制は縦100フィート、横75フィートの広さのグランドで、9人制は縦150フィート横75フィートの広さのグランドで行う。競技人口の流動性のためにネットボールの普及は妨げられることになる。

 オーストラリアにおけるネットボールの初期の歴史はあまり記録されていない。それは小学校や中等学校で世紀の変わり目にプレイされ、おそらくイギリス人の教師によって導入された。ヴィクトリアにおいて小学校では1913年まで、中等学校では1915年まで、学校間の7人制の大会が行われた。リッチモンドのチャーチ・ストリートにあるキリスト教女子青年会(YWCA)のユースホステルには、ネットボールのコートをもつ広場があり、メルボルン女子バスケットボール協会の設立に先立って、他の女子クラブはそこでプレイすることに魅せられた。 1920年代以来、ゲームは学校や民間のクラブを通じて広まった。

 AAWBBA(全オーストラリア女子バスケットボール協会)の設立に先立って、オーストラリア全土に競技団体があったが、7人制と9人制のルールが併存していた。 1926年にはメルボルン女子バスケットボール協会を代表するチームがシドニーに遠征した。それは、州間の最初の対抗試合であり、これがきっかけで、1927年に7人制のネットボールを奨励するAAWBBAが設立された。しかしながら、1932年には7人制のゲームに加えて9人制のゲームがクィーンズランドで、5人制が西オーストラリアで行われていた。

 AAWBBAの設立において、1927年の議事録で承認されているその目的は、様々な州のバスケットボール協会間の親密な関係を推進すること、競技を通じて高い水準のチームプレイを発達させること、州間試合、国際試合の開催、またオーストラリアの女子の7人制バスケットボールのルールを制定すること、である。

 当時のルールとは、グランドは縦90フィート、横45フィート、ゴールは鉄の輪から成る直径15インチのもので、地上10フィートの高さに水平に位置する。ゴールはボードから6インチ突き出ており、網はあろうとなかろうと構わない。ボールは普通のサッカー用ボールで円周27インチから28インチであった。

 国内の競技大会としては、1927年から1938年まで、各州のチームがプラウズ・チャレンジカップを争った。 1939年以来、各州間のトーナメントの勝者は、エリクス(旧姓ハーグレイブ)により贈られたエリクスの記念盾を受け取った。オーストラリア初期の国際試合はニュージーランドとの国際試合であった。しかし、初期の交渉は、ニュージーランドが9人制のネットボールをしていたため困難であった。けれども、1938年エディス・ハルの招きでニュージーランドチームが招待され、州代表とだけでなく、オーストラリア代表とも対戦した。これを契機にオーストラリア、ニュージーランド、イングランドのルールを統合した国際ルールが作られた。

 1948年になって初めてオーストラリア人は海外でネットボールをプレイした。オーストラリアは7人制のルールの下で、ニュージーランドのチームを相手に3度のテストマッチに勝利した。選手は遠征費用の大半を自弁し、試合用、外出用ユニフォーム、保険補償、健康診断の負担にも耐えた。

 オーストラリアとイギリスとの最初の対戦は1956年に初めて行われ、AAWBBAと全イングランドネットボール協会(AENA)との協議に従って行われた。オーストラリアのチームは、イギリスのルールを習得するのに船上で多くの時間を費やした。遠征中の試合結果は64勝3敗であった。この遠征をきっかけに、1957年国際的なルール作りのための会議が開かれ、国際ネットボール連盟(IFNAとして現在は知られている。)の設立に至った。この団体が1960年セイロンで会合を開き、国際ネットボール選手権を4年に1度開き、1963年に第1回を開くことを提唱した。全オーストラリア・ネットボールチームのプレイ水準は非常に高く、1991年にシドニーで開かれた世界ネットボール選手権を含む、8度の選手権のうち6度世界タイトルを手にいれている。

 20世紀以来、オーストラリアで、ネットボールは最も多くの女性競技人口をもつスポーツである。およそ40万人の選手が現在では、全オーストラリア・ネットボール協会(AANA)に登録されている。学校や教会、高等学校、社会的な施設、オーストラリア合同ネットボール協会をこれに加えると、選手数は75万人に膨れ上がる。 8歳から40歳の女性のうち15人中7人の女性がネットボールをしていると見積もられている。 1990年にオークランドで開かれた、第14回英連邦競技会でネットボールはデモンストレーション・スポーツであった。オーストラリアはその大会に勝ち、この後、競技種目として自由に選択できるスポーツとして承認された。オーストラリアチームはまた、1991年にシドニーで開かれた第8回世界ネットボール選手権でも、決勝でニュージーランドを53-52で降し、優勝した。

 見国祐也00