オーストラリア辞典
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New South Wales Corps

ニューサウスウェールズ軍団


 ニューサウスウェールズ軍団はイギリス陸軍の連隊の1つである。1789年フランシス・グロースを中心にニューサウスウェールズ植民地を警備するためにイングランドで召集された。最初に召集された軍団は4つの中隊から成り、それぞれに大尉が1人、中尉または少尉が2人、旗手が1人、軍曹が3人、伍長が3人、鼓手が2人、兵卒が67人、合計316人で、1807年9月までに569人まで増加した。軍団はアーサー・フィリップ総督率いる第1船団で植民地に到着した海兵隊に代わって任務についた。

 最初に到着した分遣隊は、ニコラス・ネピーアンによって指揮された183人から成っており、第2船団で1790年にニューサウスウェールズに到着した。2番目の分遣隊はグロースによって指揮され、1792年に到着した。植民地にとどまっていた海兵隊の1部はジョージ・ジョンストンによって指揮され軍団に合流した。軍団の将校はすぐに現地の貿易に参加した。ジョン・マッカーサーは将校の1人で1795年から1805年の辞任まで任務に就いていた。ジョン・マッカーサーを含む士官たちは政治的特権と現地の貿易から莫大な利益を得ていた。軍団がラム酒軍団とあだ名されるのは、違法なラム酒貿易を行ったからである。

 軍団は1792年のフィリップの帰国と1795年のジョン・ハンター総督の着任までの空位期間に、その権力と影響力を増加させた。特に1792年から1794年にグロースは植民地の行政を支配し、ウィリアム・パターソンがこれに続いた。軍団は1804年のキャッスル・ヒルの反乱を鎮圧した。ハンター、キング、ブライ総督は軍団の力を押さえようと試み、これに対してジョンストンと軍団は1808年のラム酒の反乱で総督ブライを解任した。この反乱によって次の総督が着任するまでの間、事実上ニューサウスウェールズ軍団は植民地を支配することとなった。ブライの失敗は当時の将校や役人が公務と私的活動を区別せず、慣習としての公務を利用して利益を得ることを理解しなかった点にある。彼は強行に私的活動に干渉し、植民地のジョン・マッカーサーを代表とした特権階級と衝突し敗れたのである。総督ラクラン・マクウォリーが着任すると、第73連隊が植民地の支配を担当することとなり、軍団は1810年にイングランドに戻り第102連隊に再編された。

 西川俊紀0401