オーストラリア辞典
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New South Wales Legislative Council

ニューサウスウェールズ立法評議会


 1823年、いわゆる「ニューサウスウェールズ法」が本国の議会で制定され、ニューサウスウェールズ植民地総督を補佐する目的で、5名から7名で構成される立法評議会が設置された。1824年8月25日、最初の評議会が当時の総督公邸で開かれた。同年9月28日には最初の法律(通貨法)を制定している。メンバーは、副総督、植民地首席裁判官、植民地長官、主席軍医、測量長官から構成されていた。しかし、評議会設置後も総督は依然として立法権を独占しており、評議会は実質的には立法権を持っていなかった。立法評議会のメンバーはロンドンの植民地関係当局で任命され、当初は全員が植民地の役人であった。また、総督は立法評議会の一時的な空席を満たす権限を有していた。1825年、評議会の定員が7名に増加した。役人ではない人びとがそのうち3名就任できるようになった。残りの4名は執行評議会員であった。ジョン・マッカーサーは最初の非役人議員のうちの1人である。

 1828年、評議会の議員定数を最大15名から最小10名とし、会議には総督の出席が必要とされることが決まった。1829年に招集された評議会は、総督を除き、役人と役人ではないメンバーがそれぞれ7名ずつで構成されていた。立法評議会議員の反対が多数を占める場合は、立法過程に影響するようになった。このため、立法評議会は立法権にかかわる問題においてより強い立場を有するようになり、同時に、立法における総督の権限は弱くなった。

 1842年、立法評議会の議員定数は36名に増加し、そのうち24名が財産資格による制限選挙によって植民地の居住民から選出され、残りの12名が総督による任命制で選出されることになった(政府の役人がそのうち6名を占めた)。また、総督に代わり議長が選出され会議を運営するようになった。これがオーストラリアの植民地における初の選挙による代表制議会であった。ここに、総督による直接的な評議会の支配は終わりを告げた。1843年の選挙では、定員の4分の1がタウンから選出され、残りがカントリー・ディストリクトから選出された。このように、農村選挙区の議席数が多い状況は、後の時代まで長く続くことになる。また、この1842年法によって、ディストリクト・カウンシルという地方自治体の創設が決まったが、これは評判が悪く失敗に終わった。

 1850年に本国議会はいわゆる「オーストラリア植民地政府法」を制定し、これによりオーストラリアの各植民地は、評議会制度を改正する法律や、二院制議会を導入する法律を立法評議会で制定する権限を与えられた。ただし、本国議会の両院で少なくとも30日以上の審議を経て、女王の許可が必要とされた。1851年には、立法評議会の定数が54名に増加し、うち36名が選挙によって就任し、総督の指名によって18名が就任することになった(さらにそのうち9名が政府の役人)。

 1855年にオーストラリア国制法が修正のうえイギリス議会を通過し、1856年、新しいニューサウスウェールズ議会が誕生した。本国やカナダと同じく二院制議会の形式をとり、立法評議会はそのうち上院としての役割を担うことになった。W.C.ウェントワースによる世襲制貴族が担う上院案は、植民地でも不評であったが、本国政府も受け入れなかった。新しい立法評議会は、執行評議会の助言に基づき、総督が任命した少なくとも21名以上の議員から構成された。当初は5年の任期制であるが、のちに終身制となることにされた。立法評議会は下院(立法議会)とほぼ同等の力をもっていた。下院から送付された予算案を含む各種法案を拒否することができたため、より民意を反映した下院としばしば対立した。立法評議会の議員は富裕者や古参の市民から構成される傾向があったため、下院よりも保守的であった。

 1860年代以降、立法評議会の改革が、くりかえし試みられた。1900年までに8回改革の試みがなされたがすべて失敗した。とくに保守的勢力は改革には強い反対の立場をとった。ただし、この間、立法評議会じたいも、政党の利害が性急に法律としてあらわれる下院に対する「良識の府」や「憲法の番人」として、その性格を変化させていった。その背景には、民意を反映していない議会に対する世論の圧力と、時の政権が敵対する上院に対して、議員数を増加することで対抗しようとしたことがあった。

 それにもかかわらず、選挙で選ばれない立法評議会は、とくに労働党から強く非難された。選挙制に移行させる試みが何度かなされたが、すべて失敗した。評議会じたいを廃止する試みも労働党によって推進された。ニューサウスウェールズ州首相ジャック・ラングは、1925年から26年と1931年から32年の2度にわたり、労働党の政策を上院廃止へ向けさせようと試みたが、いずれも失敗に終わっている。その間、1929年に、国民党のニューサウスウェールズ植民地首相トマス・ベヴィンThomas Bavinによって、1902年の憲法法への新条項の追加が実現した。その結果、上下両院を通過し、さらに国民投票で支持されない限り、立法評議会廃止法案は国王からの認可を受けられないことになった。

 1933年、大きな制度改革がおこなわれた。国民投票によって、立法評議会は60名からなる議院とされ、上下両院の議員から比例代表制に基づき選出されるようになった。任期は12年間で、60名のうち15名が3年に1度、改選された。

 このように立法評議会は制度が改革されたが、その後も労働党によって攻撃を受けた。立法評議会を廃止または改革しようとする試みは、1941年、46年、52年(ただし議員立法)、59年とおこなわれた。しかし、国民投票による否決などによって、すべて失敗した。立法評議会の改革が成功するのはラン労働党政権を待たねばならなかった。1978年、立法評議会は、比例代表制によって選挙民から直接選挙された45名の議員によって構成されることとなった。そのうちの15名が下院の総選挙ごとに改選され、最大9年間の任期となった。1981年に下院の任期が4年となったため、最大で12年間の任期となった。また、1991年に上下両院の議員定数が削減されたことにともない、立法評議会の定員も42名に削減された。同時に、総選挙ごとの改選対象が定員の半数となり、その結果、立法評議会の任期は最大8年となった。さらに、1995年に憲法修正法が可決され、下院と立法評議会の選挙が4年おきにおこなわれるようになった。その結果、立法評議会の議員の任期は8年に固定されて現在にいたっている。

 坂本優一郎00

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