オーストラリア辞典
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Niemeyer, Otto Ernst

ニーマイア(ニーメイヤー、ニーマイヤー)、オットー・アーンスト


1883‐1971
ストリーザム、ロンドン、イングランド生まれ。
官僚、銀行家。


 戦間期を中心に、英国大蔵省、イングランド銀行、国際決済銀行(BIS)において、経済政策や国際金融等の分野で活躍、大恐慌後のオーストラリア経済再建に対する支援にも従事した。

 ハノーバー出身で後に英国に帰化した父と英国人の母との間に生まれる。オクスフォード大学卒業後、公務員試験に首席で合格、大蔵省に入省した。ちなみに、このときの試験の次席は、ケインズであった。

 1922年に39歳の若さで大蔵省の財務局長となる。1925年には第1次世界大戦にともない停止されていた金本位制への復帰を主導した。当時大蔵大臣であったチャーチルは、デフレを招くとして金本位制への復帰に難色を示していたが、最終的にはニーマイアの説得を受け入れ、英国の金本位制復帰が実現した。

 1927年、ニーマイアは大蔵省を退官し、イングランド銀行に移った。同行では、顧問(後に理事)として総裁を補佐し、金融政策の運営に手腕を発揮した。特に恐慌期には、国内不況産業の再生のみならず、オーストラリア、ブラジル、インド、アルゼンチン等をはじめとする諸外国の経済及び財政の再建を支援した。オーストラリアに対しては、1930年に公共支出の削減を柱とする改革案を提示している。また、1941年には、蒋介石の要請で中華民国を訪問し、経済運営や外国からの経済援助の利用について助言を行った。戦後も、1966年に退職するまで、同行の国際部門において中心的な役割を果たした。なお、イングランド銀行文書館には、大蔵省時代を含めたニーマイアの報告書類が所蔵されている。

 また、ニーマイアは国際機関においても活躍した。1922年、国際連盟の金融委員会に参加し、第1次世界大戦後の中欧、バルト及びバルカン諸国の経済復興を支援した。1932年には設立間もない国際決済銀行(BIS)に参加、1937年から第2次世界大戦勃発までBIS議長を、戦後も1964年まで同副議長をそれぞれ務めた。特に、ブレトン=ウッズ協定の交渉におけるBIS不要論を封じ、BISの存続と基盤の確立に尽力した。

 さらに、教育や精神衛生(保健)の分野においても活動し、ロンドン大学経済学大学院の理事長等も務めた。1971年2月6日サセックスの自宅で死去した。

  浅野敬一00

イングランド銀行文書館