オーストラリア辞典
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O'Malley, King

オウマリー、キング


1858?-1953
生誕地不明
保険セールスマン、南オーストラリア下院議員(1896-99)、連邦下院議員(1901-1917)。


 カナダのケベック生まれだと本人は主張しているが、おそらくアメリカのカンザス生まれである。父はアイルランド人の牧場主であり軍人であった。父はニューヨークで教育を受け、彼の叔父の銀行でしばらくの間働き、その後1880年頃からアメリカの様々な州で、保険や不動産の仲介業者として働いた。派手で論争好きな性格で、伝えられるところでは、自分自身の教会を作り、絶対禁酒家を明言し、『アリゾナ・キッカー』誌Arizona Kickerのジャーナリストとして働いた。1888年に健康上の理由でオーストラリアへ移住し、メルボルンに到着した後、ヴィクトリア、タスマニア、西オーストラリア、南オーストラリアで数年間保険の販売をした。国籍に関する被選挙権の問題にも関わらず、1896年から1899年まで南オーストラリア議会の無所属の議員であった。当時の選挙法では、イギリス臣民だけが議員となる資格を有していた。連邦運動の支持者であったオウマリーは1901年から1917年まで、タスマニアの選挙区を代表する下院議員であった。最初は無所属であったが、後に労働党メンバーとなった。1904年には老齢年金に関する特別調査委員会、1905-6年にかけては王立調査委員会のメンバーであった。1910年から1913年、1915年から1916年にかけて内務大臣を努めた。オウマリーはコモンウェルス・バンク設立に大いに貢献したと考えられており、キャンベラ建設計画において重要な役割を果たした。平和主義者であったオウマリーは、1916年に徴兵に反対してヒューズ首相と対立し、労働党分裂後の1917年には連邦選挙で落選した。1919年と1922年に、彼は独立労働党候補として連邦下院選挙に立候補したが、落選した。余生をメルボルンで過ごし、個人的な投資に集中した。婦人の権利の支持者であったオウマリーと彼の2番目の妻は、女子学生奨学金に財産を残した。

 見国裕也1101