オーストラリア辞典
Google

和文索引(お)に戻る  英文索引(O)に戻る


Ottawa Conference

オタワ会議(1932年)


帝国特恵制度の導入を決定した帝国経済会議。


 1932年カナダのオタワで自治植民地とイギリス本国の代表が集まり、帝国内の貿易の特恵システムに基づいた、新しい経済政策が策定された。大恐慌によって世界貿易が縮小し、イギリス本国が1931年に自由貿易を放棄したことが、この会議の背景にある。つまり、自由貿易の代わりに、本国、自治領、植民地といったイギリス帝国の結びつきを強化し、特恵の相互付与による貿易ブロックを形成しようとしたのである。

 この会議のオーストラリア代表団の団長は、元首相のブルースであった。彼は当時、オーストラリア政府の在ロンドン代表の職にあった。この会議で合意された事項はオーストラリア国内では様々な反響を呼んだ。そのなかでも最も論議を呼んだのは、オーストラリアが保護関税を課すことが可能なのは、今後成功する見込みのある産業に限定されること、さらに、オーストラリアは、イギリス本国の製造業者がオーストラリア市場で不利になるような、保護関税を撤廃しなければならないことであった。とくにオーストラリア産業保護同盟などには、帝国特恵とはオーストラリアの産業を制限する意図を持つものであると受け取られた。このような経済ナショナリズムは、一体としての帝国という感情に基づくオタワの理想と衝突したのである。

 オタワ会議後、以前から設定されていたオーストラリアの保護関税を、イギリスに特恵を与えるためにさらに引き上げる必要が生じた。この新しい帝国特恵システムのために、オーストラリアは帝国特恵外の諸国との通商協定を再交渉しなければならなくなった。その結果、通商上の争いがいくつか発生した。その代表的なものとして、日本やアメリカ合衆国との争いを挙げることができる(貿易転換政策)。帝国ブロック内における特定貿易品目の割り当てシステムも、貿易摩擦を引き起こした。

 たしかに、オタワ協定は1930年代における経済回復に一定の役割を果たしたといえる。しかし、帝国特恵外地域との貿易がより高い成長率を示す場合もあった。この協定は1937年の帝国会議で再度検討されることになっていたが、同会議での主要な議題は防衛問題などになり、帝国特恵制度は改められることにはなかった。

 1930年代末までに、オーストラリアはオタワ会議時点よりも、より広い世界市場に関心を抱くようになった。GATT(貿易と関税に関する一般協定)が1948年に発行するにともない、オタワ協定は徐々により大規模な貿易機構にその役割を奪われていった。1973年、イギリス本国がEC(ヨーロッパ共同体)に加盟すると同時に、オタワ協定は消滅した。

 坂本優一郎00