オーストラリア辞典
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Page, Earle Christmas Grafton

ペイジ、アール・クリスマス・グラフトン


1880-1961
グラフトン、ニューサウスウェールズ生まれ。
政治家、外科医、連邦首相(1939)


 1880年職人の息子としてグラフトンに生まれる。グラフトンの公立校で優秀な成績を修め、シドニー・ボーイズ高等学校とシドニー大学への奨学金を得る。15歳で大学に入学、医学を専攻する。

 医者になった彼は、農場や牧場経営にも手を広げた。ペイジはそのころから政治に興味を抱き始め、1919年に連邦議会議員となった。1920年オーストラリア地方党の設立に参加し、1921年には地方党のリーダーとなる。彼は1923年国民党と連立を組み、1929年までブルース内閣で財務大臣を務め、債務評議会の設立と財政協定の締結に尽力した。労働党政権崩壊後はしばらくの間政権から離れたが、1934年ライオンズ率いる統一オーストラリア党との連立政権を組み、首相代理を務めた。

 ライオンズの死んだ1939年に、ペイジは19日間連邦首相を務める。ペイジはメンジーズが統一オーストラリア党の新しい党首になるのを妨げるのに失敗した。彼はメンジーズのもとで内閣に入るのを拒み、地方党の党首の座を退いた。ペイジは第1次世界大戦の前後において、ニューイングランドの新州設立運動に深く関与し、他の地域の分離運動も支持したが、新州分離には失敗した。

 第2次世界大戦中はイギリスの戦時内閣への特別公使を務めた。後にメンジーズへの態度を軟化させ、1950年代の連立内閣では厚生大臣を務めた。1955年にはニューイングランド大学初代学長となり、1961年に死亡するまで連邦議員でもあり続けた。

 藤川隆男・小山明日香0704