オーストラリア辞典
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Paterson, Andrew Barton ("Banjo")

パターソン、アンドルー・バートン(通称バンジョー、バンジョ)


1864-1941
ナランブラ、ニューサウスウェールズ生まれ。
詩人、ジャーナリスト。


 19世紀末から20世紀初頭にかけ、ブッシュについてのバラッドを創作し、多大な人気を誇った詩人。オーストラリアの第2の国歌といわれる「ウォルシング・マティルダ」の作詞者としても有名である。

 牧羊業者の家庭に生まれ育ったが、10歳で学校に通うためシドニーに移り、1880年代には弁護士事務所に就職する。弁護士として働くかたわらで、詩を書き始めた。1885年からは、オーストラリアの連邦化を支持する急進的な週刊誌『ブレティン』に寄稿するようになった。彼は、ブッシュの自然や、荒々しく勇敢な男性像を題材とし、口語を用いた簡潔な詩の創作で才能を発揮した。「オーヴァフロウのクランシー」(1889年) 、「アイアンバークから来た男」(1892年)、「ソルトブッシュのビル」(1894年) などを発表。それらの作品は人気を博し、1895年に最初の詩集が刊行されると、初版は1週間以内に売り切れるほどであった。同年に、友人の経営するクィーズランドの牧場を訪れて書いたのが、「ウォルシング・マティルダ」である。通称バンジョーは、この時期に使用した筆名(父親の飼っていた馬の名前に由来)が定着したものである。

 1899年から1900年には、シドニーとメルボルンの有力紙に請われ、南アフリカ戦争の従軍記者となる。その躍動感に溢れる報告文はイギリスでも評判になり、ロンドンを本拠地とする国際通信社ロイターにも記事を提供した。1901年には、中国の義和団事件の影響を取材し、その帰途にイギリスに立ち寄り、有名な作家ラドヤード・キプリングらと親交を深める。1902年、弁護士の仕事を辞して、1904年から1908年には、シドニーの『イヴニング・ニューズ』、『タウン・アンド・カントリ・ジャーナル』の編集者として働いた。1908年から14年にかけて、家族(1903年に牧場経営者の娘と結婚)を連れてシドニーを離れ、ニューサウスウェールズ州南部で広大な牧場を経営したが、経済的には成功しなかった。1914年から1919年にわたり第1次世界大戦に従軍したあと、シドニーでジャーナリストとして復帰した。1922年から競馬の専門紙『シドニー・スポーツマン』の編集者をつとめ、1930年に引退した。

 バンジョーは、ラジオ放送に携わり、子供向けの詩集や、小説を出版するなどして、活発な引退生活を過ごした。1939年には、文学への貢献が讃えられ、CBE(大英帝国第3級勲功章)を授与されている。1941年2月にシドニーで死亡。ラジオでは、「彼が生きて[詩を]書いていなかったとしたら、この国を統合する感情的な絆は、はるかに弱いものになっていただろう」という追悼文が読まれた。バンジョーの全作品集(1923年初版)は、長年にわたって版を重ねており、1983年には、彼の孫によって、未刊の詩も含めた新しい全集が刊行された。

 日本語の文献では、パタスンやパタースンとして現れる場合がある。 

  戸渡文子00

バンジョー