オーストラリア辞典
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Pre-federation art

連邦成立以前の絵画


 植民地における初期の絵画作品は、主にイギリスの観衆のためにオーストラリア植民の様々な側面を記録することを目的として作成された。その作品は素朴で直接的なものであり、銅版画、水彩画、油彩画といった技法で作成された。今日の公式報告がテキストをより詳しく述べるために写真を添えているのと同様に、そうした絵画作品も植民地生活の報告を伴っていた。また、芸術家たちよりもむしろ挿絵画家たちがその作成に携わっており、そうした者の中には流刑囚たちも含まれていた。

 その作風は、ニューサウスウェールズ入植前後に行われた学術航海に同行した、地形図作成者の伝統的様式に従ったものであった。作品がいっそう絵画に近づいていく一方、時には当時流行していたピクチャレスク・ロマンティック様式に従う傾向も見られ、オーストラリアの環境の描写に合わないものも出てきた。その結果、特に風景画において、オーストラリアの主題にイギリス流の解釈を加えようとする試みも増加した。

 多くの自由移民がオーストラリアに到着し始める1820年代以降、このような傾向はさらに顕著になる。イギリスの情景を再生産することで、移民のイギリスへの郷愁をかきたてた。1830年代に入ると、一部の芸術家たちにとっては販路を確保するに足るほど人口が多くなった。

 ゴールドラッシュは、オーストラリアの新しいイメージと並んで、絵画に対する新たなパトロンを生み出すことになった。芸術家たちは新たなフロンティアの開拓を始め、アウトバックの描写を始めた。彼らはしばしば社会生活についてのコメントを残しているが、それは初期の頃の植民地芸術家に欠けていたものである。ゴールドラッシュ、旱魃、ブッシュレンジャー、ブッシュファイアーといったものが共通のテーマであった。この時代の風景画家にはオーストリア人、オイゲン・フォン・ゲラールも含まれる。

 オーストラリアの印象主義絵画は、1880年代に以下のような影響から生じている。ブヴェロットやアシュトンのような画家の作品。1880年代までにアートギャラリ、展覧会が植民地でも拡大したこと。ナショナリズムの発展。1880年に開催されたメルボルンの国際展覧会には絵画も含まれていたこと。1880年代の初めには好況が見られたこと。フランスの印象主義とコンタクトがあったことである。

 1885年初めには芸術家たちのグループが、オーストラリアのブッシュをテーマとして風景画を作成するために、メルボルン近郊の田園地帯でキャンプを開いた。彼らの中には印象主義の技法に従って作品を手がける者もいた。キャンプの提唱者はトム・ロバーツ Tom Robertsであった。最初のキャンプはメルボルン郊外のボクス・ヒルにあり、最後はハイデルバーグで行われた。

 ハイデルバーグにキャンプがあった1889年には、そのグループはメルボルンで9×5インチサイズ印象画という展覧会を開いている。キャンプの開かれたその場所は、オーストラリア絵画の新しい潮流の名称となった。ハイデルバーグ派のことである。その展覧会の名称は、絵画のために使われた多くのシガーボックス(9×5インチのサイズだった)から来ている。

 キャンプは1889年の展覧会の後に解散し、印象主義者たちは独自の道を歩み始めた。なかにはストリートンやロバーツのように海外で長く過ごした者もいた。その後数十年間にわたり印象主義は、オーストラリアの絵画において大きな影響力を持ったが、1890年代の不況は以前見られた絵画への熱狂を弱めた。

 1880年代の初期印象主義者の時期と時同じくして、オーストラリアではペン画の強い伝統が始まることになる。その時代の政治的風潮がペン画家の助けとなる一方、『ブレティン』紙がそうした芸術家たちのための重要なメディアになった。

 中村武司01