オーストラリア辞典
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Pre-federation poetry

連邦成立以前の詩


 囚人植民地としての出発は、他の多くの文学分野と同様に、詩に対しても悪影響を及ぼした。最初の詩集『オーストラリアの最初の果実』は、1819年にニューサウスウェールズ最高裁の判事、バロン・フィールドにより出版された。その作品は、最初という以外には見るべき点がなかった。しかし同時に、表面的とは言えフィールドは、オーストラリアの状況を知ろうとする努力を行った。

 植民地オーストラリアで称賛された最初の詩人、チャールズ・ハーパの作品は、その大半が彼の死後、出版された。ハーパはニューサウスウェールズのウィンザーで生まれ、様々な職を転々とする放浪の詩人のようなものであった。ハーパは、彼が読んだ書籍や海外の作品を、オーストラリアのイディオムで表現しようとしたが、イギリスの詩人ワーズワースの影響が明らかに見られる。その人生における最大の出版物は、The Bushrangers: A Play, and Other Poemsであり、この作品は1853年シドニーで出版された。社会的抗議とユートピア的オーストラリアを組み合わせた典型的な作品であり、この形式は19世紀後半に『ブレティン』紙の影響下で確立されることになる。急進主義を支持するハーパの立場は、保守的な同時代人による受容に対し不利に働いた。彼の死後、大きな詩集であるPoemsが1883年に出版されたが、その作品のほとんどがまともに編集されていなかった。その作品の多くが模倣であったけれども、ハーパのオーストラリアニズムは、詩人としての彼の評価をその死後に高めることになった。

 ヘンリー・ケンドルHenry Kendall(1839-82)についてもハーパーと同じことが当てはまる。ケンドルはニューサウスウェールズ出身で、その海岸地帯で職を転々とした。ハーパの崇拝者であり、彼にならってオーストラリアの風景を主題とした作品に専念した。最初の出版物であるPoems and Songsは、1862年に出版された。新聞記事を除くと、彼が出版したのは4巻からなる詩集が全てであった。その人生の終わりには、全国的に知られるようになった。ロマンティックな言い回しに富んだ愛国的な韻文は、読者の要求に応えるものであった。1882年、彼はシドニーで亡くなった。

 もう1人の主要な植民地の詩人は、アダム・リンジー・ゴードンAdam Lindsay Gordon(1833-70)である。アゾレス諸島で生まれ、イギリスで教育を受けた彼が、オーストラリアに到着したのは、1853年のことである。彼の作詩におけるインスピレイションは、バイロンやブラウニング、テニソンのようなイギリスの詩人から来ている。ゴードンは家族の不和や身体上の苦痛が原因で、1870年メルボルンのブライトンで自殺した。

 ゴードンの人気は、そのバラッドと死亡した年に出版された詩集、Bush Ballads and Galloping Rhymesに基づいている。また'How we Beat the Favorite'や'The Sick Stockrider'のような小品もよく知られている。輸入された海外の作品を、オーストラリアの都市や田舎のテーマの融合する手法は、19世紀の初めにはすでに行われていたが、ゴードンはバラッドでこれを試み、『ブレティン』紙も同様の手法を用いた。ヘンリー・ローソンやアンドルー・バートン・パターソン、通称「バンジョー」は人気のある詩人となった。ニューサウスウェールズで生まれたパターソンは、『ブレティン』紙におけるその署名を「バンジョー」としたため、一般にこの名前で知られるようになった。彼はブッシュの物語を吟遊詩人風に上手く表現することができたので、読者を魅了し続けた。シンプルで直接的な文体に見られるように、そのバラッドは社会的論評としての手段ともなった。それゆえ、特に1890年代の不況期に、彼の作品は多くの読者をえた。

 中村武司01