オーストラリア辞典
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Royal Australian Navy (RAN)

ロイアル・オーストラリアン・ネイヴィ、オーストラリア海軍


 1901年の連邦形成によって、植民地が保持していた小規模な海軍力は、連邦政府の指揮下に移った。同時にオーストラリア防衛のため、イギリス海軍への財政援助が連邦政府によって継続された。しかしながら、オーストラリア独自の海軍設立を希望する人々も多く存在していた。日露戦争は、オーストラリア側に自身の防衛の必要性を痛感させ、安全保障における海軍の役割が注目されるようになった。ヨーロッパとイギリスにおいて、ドイツ海軍に対抗するためにイギリス海軍が本国付近に留まる必要が生じ、またオーストラリアが独自の海軍力の保持への要求を強めると、イギリスはオーストラリアが独自の海軍力をもつことを承認した。

 オーストラリア海軍RANは1911年に設立された。重巡洋艦オーストラリア号と軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻による小艦隊が1913年に到着した。シドニー湾のコカトゥー島が、海軍のドックヤードとなった。1913年にヴィクトリア州のジロングに一時的な訓練センターが設立されていたが、ニューサウスウェールズ南岸のジャーヴィス湾に、海軍士官学校が1915年設立された。1914年の第1次世界大戦勃発時、オーストラリア艦隊の指揮権はイギリス海軍に移った。

 両大戦間期には、海軍の拡張はほとんど行なわれなかった。連邦政府によって委託されたイギリス海軍のジェリコー卿によるオーストラリア防衛に関する報告書が、海軍の増強を強調していたにもかかわらず、海軍局が戦間期に再び作られることはなかった。大恐慌時、海軍への支出は大幅に縮小された。ジャーヴィス湾の士官学校は1931年に閉鎖され、ヴィクトリア州フリンダーズの海軍基地がこの受け皿となった。ジャーヴィス湾が再び利用されたのは、1958年のことである。

 RANは1939年から1945年の戦争中、主要な2つの戦線で活躍した。キャンベラ号、シドニー号、パース号の3隻の巡洋艦と、4隻の駆逐艦が失われ、死傷者は2,000人以上に達した。第2次世界大戦後には、小部隊が朝鮮戦争に従事している一方で、ヴェトナム戦争にはより多くの海軍力が投入された。また、湾岸戦争にも艦船が派遣された。1980年代初め、海軍の全兵力は約17,000人であった。オーストラリア国内におけるRAN用の艦船建造は1913年に始まった。それ以降オーストラリアは、中型および小型の艦船の多くを、RANに提供した。しかし最近では、国内で製造された潜水艦に大きな欠陥があることが明らかになり、大問題になっている。

 松田真01