オーストラリア辞典
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Rugby League

ラグビー・リーグ


 ラグビー・リーグは、1チーム13人で構成されるフットボールである。イギリスでのラグビー・ユニオンの分裂を受け、1907年、オーストラリアでもシドニーでラグビー・リーグが設立された。1908年4月から、このリーグのもとで9チームが試合を始めた。他方、クィーンズランドでも同年3月に、ラグビー・リーグ連盟が設立されていた。最初のシーズンの終わりに、イギリスへ代表チーム、カンガルーズが初めて派遣された。また1909年のシドニーのシリーズの終わりには、オーストラリアのラグビー・ユニオンのチームであるワラビーズとの試合が行われた。ラグビー・ユニオンは第1次世界大戦の間中断されたが、ニューサウスウェールズとクィーンズランドのラグビー・リーグは中断せずに繁栄を続けた。

 1908年に州リーグpremiershipで優勝したサウス・シドニーは、1920年代後半及び1950年代に最強のチームであった。イースタン・サバーブズ(1930年代)やセント・ジョージ(1956年から1966年)も一時期黄金期を迎えた。シドニーのリーグは、キャンベラやニューカッスル、ブリスベンへと範囲を広げ、ラグビー・リーグの人気の広がりを示した。

 ラグビー・リーグはルールの変更が大きな特徴である。シンビン(退場の代わりに5分か10分間出場が停止される制度)の制定の他、特にニューサウスウェールズで制限タックル・ルールが設けられ、6タックル後にはスクラムを組まずに、攻撃側から相手チームにボールが渡されることになった。テレビの発達にともない、ラグビー・リーグのルールも試合の動の部分を強調するようになったのである。

 クィーンズランドでは、1909年以降、ブリスベンで組織化された試合が行われるようになった。また地方でもトゥウンバToowoombaやイプスウィッチなどのチームが優勢な時代があった。しかし経済的な理由から、クィーンズランドからシドニーのクラブチームへ移るものも多く、優秀な選手不足に悩まされた。しかし、ステイト・オヴ・オリジンの試合の導入以後は、クィーンズランドとニューサウスウェールズの対抗戦での力は均衡している。

 審判では、リーグ初期のトム・マクマーン、1940年代の「若い」トム・マクマーン(前者とは無関係)が有名である。しかし近年はテレビのリプレイがあるため、審判の権威はなくなったと言われる。またリーグ初期からプロのコーチが存在し、サウス・シドニーのアーサー・ヘネシー、後にテレビのコメンテーターになったジャック・ギブソンなどが有名である。

 ラグビー・リーグでは、ニュージーランドのキウィズとの定期戦が特徴となっている。またイギリスへのナショナル・チーム、カンガルーズの遠征も、ラグビー・リーグの重要な特徴であり、1963年から1964年のカンガルーズの遠征以降両者の力は均衡している。オーストラリアへのイギリスのチームの遠征も1910年から定期的に行われている。1950年には、1920年の唯一の勝利以来、オーストラリアは初めてイギリスを破った。その後何度かイギリスを破り、オーストラリアでは国際試合への関心が高まった。フランスとの定期戦、1954年からのワールドカップはその表れである。

 ラグビー・リーグは、初期の頃は多くの論争があり不安定だったが、1910年以降安定期を迎えた。1960年から1973年にW.G.バックリーが議長の頃、リーグの人気は1つのピークを迎えた。他方、クィーンズランドでは組織内で分裂があった。ラグビー・リーグは1924年に全国評議会が設立され、1940年代からダーウィンや西オーストラリアでも試合が行われるようになった。1970年代には一時期人気にかげりが見えたが、改革が行われ、1980年代にはテレビの影響などから再びラグビー・リーグへの関心が復活してきた。ラグビー・リーグは時代に常に適応しようとした結果、ニューサウスウェールズとクィーンズランドで最も人気のある冬のスポーツになっている。

 清水寿夫00