オーストラリア辞典
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Rugby Union

ラグビー・ユニオン


 ニューサウスウェールズにラグビーが本格的に導入されたのは1870年代のことであるが、はやくも1874年には、ニューサウスウェールズ・ラグビー・ユニオンの前身である、サザン・ラグビー・フットボール・ユニオンが、ニューサウスウェールズ植民地の試合を管理するために設立された。同組織が今日の名に変わったのは1892年のことである。

 1880年代に入ると本格的なラグビーの拡大が起こり、1882年にはクィーンズランドとの対抗戦も行われるようになった。しかし、大衆的なスポーツとしてのラグビーの発展は、クラブ対抗戦によって制限されており、シドニーの郊外化を反映する、郊外地域間の対抗戦の拡大が、さらなる発展には必要であった。世紀転換期には、地域を基盤とするチームが結成されるようになった。

 シドニー及びオーストラリアにおけるラグビーの大きな分裂は、1907年にニュージーランドのプロチームが、イギリス本国への途上訪問した際に生じた。イギリス本国におけるラグビー・フットボール・ユニオンの分裂と同じようなことが、オーストラリアでも起こったのである。ラグビーは、もはや学生や中流階級だけのゲームではなく、労働者階級も試合に出場し、賃金の損失の補償や、傷害の治療費を要求するようになっていた。ジェントルマン的な支配に反発した人々は、ラグビー・ユニオンに対抗するラグビー・リーグを設立した。ラグビー・ユニオンは、1908年から翌年にかけてナショナル・チーム、ワラビーズをイギリスに送り出したが、1909年のシーズンの後半期において、この選手たちがアマチュアリズムの規範を犯したことが分かった際、このシドニーにおける分裂は決定的となる。妥協は成立せず、ユニオンも安易な解決を望まなかったので、優れた選手たちはラグビー・リーグに移って、プレイをすることになった。シドニーの主要なグラウンドはリーグが押さえ、ユニオンは停滞を余儀なくされた。

 第1次世界大戦の間、ラグビー・ユニオンは試合を中止し、その影響力はさらに低下した。1919年に試合が再開されるが、クィーンズランドにおいてはその年しか続かず、1929年まで再開されることはなかった。1920年代には地域クラブと非地域クラブとの間に軋轢が生じ、1929年にはその分裂は決定的となった。非地域クラブはメトロポリタン・サブディストリクト・ラグビー・ユニオンを作り、ニューサウスウェールズ・ラグビー・ユニオンと直接提携するようになる。この状態は第2次世界大戦の勃発まで続いた。戦後、1950年代を通じてシドニーでは、サブディストリクトのラグビーが急速に発展するが、1962年にはさらにもう1つ連盟が結成され、1979年にも別のリーグの結成が試みられた。

 1960年代にはシドニー・ラグビー・ユニオンが形成される。この頃からニューサウスウェールズとクィーンズランドとの対抗が、オーストラリアのラグビー・フットボール・ユニオンにおける顕著な特徴となる。またこの両者の対抗関係に力とエネルギーが集中されるようになった。しかし、1970年代から1990年代初めまでのニュージーランドやイギリスとのテストマッチにおける勝利、あるいは1991年のワールドカップの勝利にもかかわらず、オーストラリアのラグビーは1890年代と同様に、プロとアマチュアをめぐる問題や連邦レヴェルの試合など多くの問題を抱えている。

 中村武司00