オーストラリア辞典
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Second Fleet

第2船団、セカンド・フリート


 1790年6月に、植民地に到着した多数の囚人と物資を運んだ船のことを第2船団という。イギリス出発時の囚人数は1,250人を超えていたにもかかわらず、入港したのはおよそ1,000人の囚人であった。ネプチューン号の死者だけで150人を超えていた。

 1790年の1月にポーツマスを出港した囚人輸送船サプライズ号、ネプチューン号、スカーバラ号に乗っていた囚人の大部分は、喜望峰経由で航海し、その年の6月にシドニーに到着した。ニューサウスウェールズ軍団は、囚人の監視役として輸送船で航海した。イギリスを出てすぐに、スカーバラ号での反乱計画の噂が流れ、航海中船内の統制が引き締められた。そのグループの中には78人の女性囚人がいた。病気で上陸したものは約500人、到着した囚人の総数の約半分であった。航海中の死者数は267人に昇った。

 6月3日にレディ・ジュリアナ号が220人あまりの女性囚人をともない到着した。彼女らのうち大多数はロンドン地域からきていた。彼女らの罪はほとんど売春、窃盗といった類のものだった。レディ・ジュリアナ号は1789年7月にイギリスを出港し、リオデジャネイロで数週間予定より遅れ、到着した時には長い間待ち望まれていた補給船ガーディアン号の沈没のニュースを植民地にもたらした。

 イギリスを発つ補給船は時々少人数の囚人を運ぶ場合があった。ガーディアン号は1789年9月に家畜を含む植民地用の食料を乗せ、スピットヘッドを出港したが、1789年12月に氷山と衝突し喜望峰沖で難破した。船上にいた少数の囚人たちは、サプライズ号、ネプチューン号、スカーバラ号の3隻の主要な輸送船が喜望峰を通過する時に、ひろい上げられた。もう1隻の補給船ジャスティニアン号は1790年6月に到着した。

 特にネプチューン号における高い死亡率と、船内の全体的に冷酷な囚人の取り扱いは、イギリスにおいて世論の批判を引き起こした。ネプチューン号の船長ドナルド・トレイルは、少なくとも1名の囚人の殺人罪で起訴されたが、1792年に無罪とされた。囚人の輸送についての契約は、輸送船の悲惨な状況の部分的説明となる。金に目の眩んだ囚人輸送の請負人たちは、輸送船1隻あたりの囚人の人数を増やした。その結果、混雑した船内では衛生状態が悪化し、病人が増加し、多くの死者を出した。第2船団の航海中にこういった不健全な状況がはびこった結果、カムデン、カルバート、キングといった輸送の請負会社は、結局は囚人輸送における契約を失ったのであった。

 見国祐也00