オーストラリア辞典
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South-East Asia Treaty Organization (SEATO)

東南アジア条約機構


 1954年、フィリピンのマニラで調印された東南アジア共同防衛条約(通称マニラ条約)に基づき結成された組織(条約もまた、SEATOと呼ばれる)。調印国は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、タイ、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、フランスの8ヵ国。SEATO結成の直接の契機は、同年開催された、朝鮮およびインドシナの南北分断とフランスのインドシナ撤退を定めたジュネーヴ会議で、SEATOは、東南アジア地域への中国の拡大を牽制する目的で結ばれた安全保障条約である。

 条約は、太平洋南西地域を含む東南アジア全域に適用され、議定書において、特に、カンボジア、ラオス、南ヴェトナムの3国への侵入は武力攻撃とみなすことが明示される。また、合衆国によって、共産主義勢力による侵略の場合にのみ介入する旨の条項が挿入された。さらに、オーストラリアは、インド・パキスタン間のいかなる紛争にもかかわり合わないことを明言している。条約は、オーストラリアにおいて、ANZUS(Australia, New Zealand and the United States:オーストラリア・ニュージーランド・アメリカによる太平洋共同防衛体)条約を補足する安全保障として歓迎された。SEATOにより、オーストラリアは、東南アジア地域におけるドミノ理論への対抗策および前進防衛の機会を得ることになり、さらに、西側諸国を同地域に引き込むことにも成功する。

 1956年のスエズ危機の際、アメリカ合衆国は、イギリスとフランスの軍事行動に対して強硬な態度で臨み、その結果、SEATOは大きく揺れる。さらに、1959-61年には、今度はアメリカが、ラオスの共産主義勢力パテトラオ(ラオス愛国戦線)に対してマニラ条約を発動し、オーストラリアは、空軍を派遣してこれを支持したが、イギリスとフランスには介入の意志はなく、SEATOは大きく後退した。そして、1960年代半ばからの合衆国によるヴェトナム戦争介入(オーストラリアも加わる)の泥沼化が、SEATOの有効性をほぼ消滅させた。

 1970年代半ばまでに、SEATOはほとんど有名無実の存在となった。中国と西側諸国の関係の変化が、その要因である。1973年にパキスタンが、74年にフランスが、SEATOを脱退する。オーストラリアでは、ゴフ・ホイットラム首相(1972-75)が、条約への関与を減じていく。そして、1977年に、SEATOは解散した。

 宮崎章00