オーストラリア辞典
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Spence, Catherine Helen

スペンス、キャサリン・ヘレン


1825-1910
メルロウズ、スコットランド生まれ。
説教者、改革者、フェミニスト、作家。


 南オーストラリアを中心に児童福祉、選挙制度改革、女子教育、女性参政権などの様々な運動を行い、その死に際しては「オーストラリアの偉大な老女」として哀悼された人物である。

 1825年10月31日、スコットランドで父デイヴィド・スペンスDavid Spenceと母ヘレンHelenの間に生まれた。父デイヴィドが投機に失敗し、スペンスは両親とともに1839年に南オーストラリアのアデレイドへ移住した。1846年に父親が亡くなり、その後はスペンスが家庭教師をして生計を維持した。1856年頃にユニテリアン派に改宗し、南オーストラリア初の女性説教者としてアデレイドを中心に活動した。1872年にキャロライン・クラークCaroline Emily Clarkが里子協会Boarding-Out Societyを設立した際は彼女を助け、同協会のメンバーとして家庭訪問などを行い児童の福祉を追求した。1886年に設立された国民児童評議会State Children's Councilのメンバーにもなっている。

 スペンスは様々な運動の中でも選挙制度改革を重視し、比例代表制度導入の運動を行った。1861年には、南オーストラリアにおけるトマス・ヘアThomas Hareが提唱する比例代表制の入門書として知られるA Plea of Democracyを出版した。1892年には公正な比例代表制を達成する唯一の手段として、修正ヘア=スペンス・システムを提唱した。1893年にシカゴで開催された万国博覧会へ赴いたスペンスは、比例代表制会議や平和会議などで演説を行い、翌年は合衆国やイギリス、スイスを回り公演や説教を行った。帰国後、効果的投票連盟Effective Voting League(スペンスは比例代表制をEffective Votingと呼んだ)を設立した。1891年からスペンスは女性参政権運動に乗り出し、南オーストラリア女性参政権連盟Women's Suffrage League of South Australiaの副会長に就任した。彼女たちの運動の結果、1894年に南オーストラリアは女性参政権を認めたオーストラリアで最初の植民地となった。その後もスペンスは、ニューサウスウェールズやヴィクトリアにおける女性参政権運動を支援したり、国際女性会議International Council of Womenの地方組織設立を訴えたりした。1897年の連邦憲法制定会議にオーストラリアで初の女性候補者として出馬するが、落選した。

 小説家としてのスペンスは、女性によって書かれた初めてのオーストラリアに関する小説Clara Morison: A Tale of South Australia During the Gold Fever(1854)やTender and True(1856)の作者として知られている。またノンフィクションでは、1880年に出版されたThe laws we live underは、オーストラリアの学校で採用された初めての社会科学関係の教科書である。

 藤井秀明0102