オーストラリア辞典
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Spence, William Guthrie

スペンス、ウィリアム・ガスリ(ガスリー)


1846-1926
オークニ諸島、スコットランド生まれ。
労働組合運動家、ニューサウスウェールズ下院議員(1898-1901)、連邦下院議員(1901-1919)、郵政大臣(1914-1915)、行政評議会副議長(1916-1917)。


 1846年、スコットランドのオークニー諸島にあるイーデイEday島で、石工のジェームズ・マクスウェル・スペンスとその妻ジェーンとの間に生まれる。1852年に一家はゴールドラッシュに沸くオーストラリアへ移民し、ヴィクトリアのクレズウィック近郊にあるスプリング・ヒルに移り住んだ。幼い頃から羊飼いや肉屋などの仕事につき、14歳からは金鉱で働いた。後年、スペンスはこの金鉱での生活を忘れがたいものとして回想している。スペンスは正式な学校教育を受けられなかったが、ベラミー、ブラッチフォード、ラスキン、モリスといった社会主義を信奉する作家の作品に触れ、その影響を受けた。

 鉱山労働者としての経験を経て、スペンスは労働組合運動の指導者として活躍した。1878年、自らが創立に尽力したクレズウィック鉱山労働組合の書記に就任。1882年から1891年にかけて、統合鉱山労働者組合の書記を務めた。オーストラリア羊毛刈取り職人組合連合Amalgamated Shearers' Unionの設立にも参加し、1886年から1893年まで同組合の議長を務めた。これらの諸団体の設立を通じ、スペンスはオーストラリアの全労働者の連帯を目指した。スペンスは、産業と政治の両面の運動を行うために、オーストラリア労働者組合AWUの設立を構想した。ただし、スペンスの労働組合主義への執着はいくつかの失敗を招くことになった。特に、スペンスが関与した1890年の海運ストライキや翌年の羊毛刈取り職人ストライキは、重大な失敗とされている。

 1894年、オーストラリア羊毛刈取り職人組合連合と各地方の鉱山労働者組合が合併し、オーストラリア労働者組合が成立。スペンスは初代書記に就任し、その後1898年から1917年まで議長を務めた。この頃からスペンスは政界での活動を開始し、1898年から1901年までニューサウスウェールズで下院議員を務めた。その後、スペンスは連邦政治の舞台にも進出。オーストラリア労働党の支援を受けて、1901年にニューサウスウェールズから連邦議会に選出されている。その後1917年まで連邦議会の議席を保持し、第1次世界大戦中のフィッシャー政権下で郵政大臣を務めるなど、オーストラリア労働党の中心的人物として活躍した。徴兵制をめぐるオーストラリア労働党の分裂後は、ヒューズが率いる国民労働党(後には国民党)に参加。1917年に落選後、補欠選挙でタスマニアから連邦下院議員に選出されたが、1919年に再選に失敗し、政治活動から引退。1926年にヴィクトリアのテラングTerangで死去した。

 主な著作として、『オーストラリアの覚醒:運動家生活の30年』Australia's Awakening: Thirty Years in the Life of an Australian Agitator(1909年)、『オーストラリア労働者組合の歩み』History of the A.W.U.(1911年)がある。

 津田博司1101