オーストラリア辞典
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Stewart, Eleanor Towzey (Nellie)

スチュアート、エラナー・タウジ(ネリー)


1858-1931
ウルムルー、ニューサウスウェールズ、オーストラリア生まれ。
女優。


 スチュアートは1858年の11月20日にシドニーのウルムルーで生まれた。彼女の父のリチャードはイギリス生まれのコメディアンであった。母はアイルランド人であり、ロンドンの王立劇場のドルリーレーンの有名な役者の血を引いていた。スチュアートの生後すぐに一家はメルボルンへと移った。そこで、彼女は国立模範訓練学校とグランドタウン・ハウス寄宿学校で教育を受けた。彼女は5歳頃には早くも「ザ・ストレンジャー」で舞台に立った。

 1879年にスチュアート一家はインドやイギリス、アメリカを公演して回った。翌年、アメリカに滞在していた彼女のもとに、メルボルンのシアター・ロイアルの支配人からパントマイム「シンドバッド・ザ・セイラー」の主役のオファーが届いた。この仕事が彼女のキャリア上のターニング・ポイントとなった。14週上演した後、ジョージ・マスグロウブと出会い、彼のプロダクションのトップになった。1888年にはグランド・オペラに出演し、連日24役をこなしたために、のどに大きな負担が掛かった。そのため、結局オペラを断念することになったが、喜劇と演劇に転向するまで、35のプリマドンナ役のレパートリーを持っていた。

 1889年に「ポール・ジョーンズ」を演じた後に、マスグロウブとともにイギリスに渡り、1893年に彼との間に娘のナンシーをもうけた。1901年にはオーストラリア最初の連邦議会のオープニングでオード「オーストラリア」を歌う栄誉に与った。1902年に、彼女の代表作となる「スイート・ネル・オヴ・オールド・ドルリー」が公演された。1905年にサンフランシスコでの公演で成功を納めたが、大地震に遭遇し、経済的苦境に直面した。第1次世界大戦が勃発すると演劇界は沈滞し、彼女は貯蓄で食いつないだ。さらに、1916年の2月に夫のマスグロウブが死去するなど幾多の困難が訪れたが、この逆境を乗り越え、H.D.マッキントッシュに説得され、彼女は舞台に復帰した。

 スチュアートは多芸に秀でた女優であり、「オーストラリアのアイドル」として知られている。晩年に若い役を演じることに最も成功した女優でもあった。家族のサポートにより早くに天職を見つけることができ、また、マスグロウブに出会えたのは幸運であった。チャリティーにも熱心であり、1910年にはシドニー病院にラジウムを提供するために3,000ポンドの寄付を集めるのに協力した。小児病棟に彼女の名前が付けられている。彼女は1931年の6月21日にシドニーで亡くなり、火葬に付された。シドニーの植物園には、1938年にスチュアート記念会が建造したスチュアートのモニュメントがある。彼女の自伝My Life's Storyは1923年に出版されている。

 新林秀亮1101