オーストラリア辞典
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Street, Jessie Mary Grey

ストリート、ジェシー・メアリ・グレイ


1889-1970
チョウタ・ナーグプアChota Nagpur、インド生まれ。
フェミニスト、アボリジナルの権利擁護活動家。


 イギリスのインド官僚の娘として生まれ、1899年、家族とともにニューサウスウェールズの北にある母親が相続した牧場へと移住した。ジェシーは女性家庭教師によって教育され、1903年から1906年までイングランドで教育を受けた後、1910年にはシドニー大学を卒業した。

 イングランドでは婦人参政権運動に参加した。オーストラリアへ戻ると、模範的な酪農農場を作り、1915年にはニューサウスウェールズ社会衛生協会の設立を手伝った。1916年に結婚して、1918年に国際連盟協会League of Nations Unionに加わり、シドニー大学に女性スポーツ協会を設立した。1920年に国民女性協議会National Council of Womenの書記となり、1923年に家政婦を訓練して供給する家政婦協会House Service Companyを設立した。1929年、賃金格差の是正を含む女性のための法的かつ政治的な公権利のために活動するUnited Associations of Womenの設立を助け、設立から20数年間その代表を務めた。またその後援で、1943年にオーストラリア女性憲章Australian Women's Charterを取り決め、1944年に、フェミニストの月刊誌『オーストラリアン・ウィメンズ・ダイジェスト』Australian Women's Digestを創刊した。これらは女性の経済的自立の理念に基づいている。

 経済的に優越した地位からの男性の特権に対する批判は、しばしば労働党の人々との対立を招いたが、彼女の立場は徐々に左傾化し、労働党に参加するようになった。1939年から1949年までオーストラリア労働党の一員で、1943年と1946年は推薦候補者、1949年は無所属で連邦選挙に立候補したが落選した。第2次世界大戦中ジェシーは、ロシア援助委員会Russian Medical Aid and Comfort Committeeを組織して、その委員長となり、「ロシアへ羊の皮を」というキャンペーンを行った。戦後ソビエト連邦を訪れた。1950年までは共産主義者との友好を批判されつつも、1946年にAustralia Russian Societyの代表となった。ジェシーはオーストラリアの国際連盟協会設立メンバーの1人であったこともあり、1930年と1938年に国際連盟の会議に出席した。国際連合設立のためのサンフランシスコ会議においてオーストラリアの唯一の女性出席者でもあった。また戦後の男女同権の新しい社会秩序形成を目指して、1947年から1948年まで国連の女性地位委員会でオーストラリア代表となった。そして1949年から1956年までの間数多くの国際会議に出席して、オーストラリアに戻ると、1956年からアボリジナルの権利のために活動して、アホリジナルに国民としての資格を与える1967年の憲法改正国民投票実施に影響を与えた。彼女の義父、夫、1人息子は全てニューサウスウェールズ裁判所長官になった。

 西川俊紀1201