オーストラリア辞典
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Sturt, Charles

スタート、チャールズ


1795-1869
インド生まれ。
探検家、軍人、植民地行政官。


 チャールズ・スタートは1795年4月28日、インドに生まれた。父は東インド会社に勤めており、ベンガル地方の判事であった。

 スタートは5才の頃、イングランドの親戚のもとに送られ、15才でハロウに入学した。父の収入が十分ではなかったので、ケンブリッジには入学できなかったが、1813年に第39連隊の旗手となった。その後、1823年に中尉、1825年には隊長に昇進した。1826年に囚人をニューサウスウェールズへ移送する任務に就き、翌年の5月にシドニーに到着した。シドニーではオーストラリア大陸内部に海があるという話題で持ちきりで、スタートはその海を発見して、栄誉を得たいと考えるようになった。その後しばらくの間、スタートは陸軍に勤務していたが、1827年11月に大陸内部の探検の許可が下り、1年後の1828年11月に探検に出発した。スタートは内陸探検の経験のあったハミルトン・ヒュームを慎重に助手に選んだ。この探検で、大陸北部の水系を明らかにし、新たにダーリング川を発見した。探検から戻ったのちスタートはすぐに、大陸内部の海に通じていると考えられるダーリング川を探検したいと考えたが、その前にラクラン・マランビジー水系の調査を命じられた。

 1829年11月、再度の探検にシドニーから出発した。この探検でマリー川とダーリング川の合流地点にヨーロッパ人として初めて到達し、さらにそれを下って河口のレイク・アレグザンドリーナLake Alexandrinaに達した。 探検後の1831年2月、スタートは駐屯地の司令官としてノーフォーク島に派遣された。そして6月には第39連隊の隊長になった。10月にシドニーに戻るとダーリング川の探検が計画されていたが、スタートは体調を崩し、急遽ロンドンへ送り返されることとなった。その途中、スタートの視力は大きく低下した。だがその後、ニューサウスウェールズに5,000エーカーの土地が与えられ、1834年にはシャーロット・グリーンCharlotte Greeneと結婚した。スタートは1835年の中ごろ、妻とともにシドニーに戻った。1838年にはアデレイドで公職についた。新しい南オーストラリア総督グレイとの対立後、1844年、3度目の探検に出発することとなる。

 その年の8月、スタートは15人の隊員、6台の荷牛車、6隻の船、200頭の羊を引き連れアデレイドを出発した。しかし、この探検は結局失敗し、内陸に海があるという考えを捨てざるを得なくなった。スタートは1846年にアデレイドに戻った。この時までに、従来から対立していたグレイが総督職を去り、アデレイドで財務長官の地位についた。イギリス滞在後植民地長官の地位についたが、視力が衰えたために1851年には退職した。

 スタートはオーストラリアを非常に愛していたので、イギリスに戻るつもりは全くなかった。しかし、子どもたちのことを考え、1853年オーストラリアを離れた。彼はイギリスで平穏に暮らし、またオーストラリア北部の探検の準備もしていたが、1869年に亡くなった。その後、彼の妻が女王からレディーの称号を与えられた。

 藤岡真樹1101