オーストラリア辞典
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Systematic Colonization

組織的植民


 エドワード・ギボン・ウェイクフィールドらによって提唱された社会経済理論であり、特に1830年代から40年代にかけて、イギリスの植民地政策に影響を与えた。この理論は、土地と労働、資本の均衡を企てたものであり、それによると、富裕な資本家だけが土地を購入できるように、植民地の公有地売却価格を十分に高く設定しなければならない。そうすれば、労働者がすぐに独立した農民になることはなく(将来的になれないわけではない)、資本家はこの労働力を利用することができる。他方、土地売却で得た資金を移民導入に用いれば、より多くの労働力を本国イギリスから植民地へ移動させることができる。労働者が資金を貯めて土地を購入すれば、さらに移民が入ってくるので、労働力は枯渇することはない。こうして植民地は発展し、最終的には自治領になることが可能となる。

 理論的には、このシステムは自動的に調節され、本国にとっても植民地にとっても有益であったため、イギリス政府は、この理論を1831年にオーストラリアとニュージーランドの植民地に適用することを決定した。公有地の売却収入によって移民を導入するという基本政策がこのときに確立した。1831年から50年の間に、補助移民が囚人に代わって移民の最大の集団になり、オーストラリアは囚人植民地から普通の植民地に転換した。

 ウェイクフィールドらは、さらに全く新しい植民地を建設することをイギリス政府に求め、その結果、南オーストラリア植民地が建設されたのである。1836年、総督ジョン・ハインドマーシュが率いる入植者が現在のグレネラグに到着し、南オーストラリアの植民地の歴史が始まった。しかし、囚人に依存しない植民地建設の試みは、順調には進まなかった。1841年までに売却された29万9,000エーカーのうち、耕作されたのはわずかに2,500エーカーにすぎず、土地は耕作の対象というよりも、投機の対象となった。植民地財政は破綻し、組織的植民は事実上失敗したのである。ニュージーランドでも同様の実験が行われ、ウェイクフィールド自身もそこへ移民した。

 水野祥子01