オーストラリア辞典
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Tasmania

タスマニア、タズメイニア


 4万年以上前にアボリジナルが住み着き、約1万2,000年前にバス海峡により本土と切断されてからは独自の発展を遂げた。1800年頃の先住民の人口は6,000人程度であったと考えられている。エイバル・タズマンが1642年に島を確認、ヴァンディーメンズランドと名づけて、南東の海岸に一隊を上陸させた。イギリス人による探検は1790年代からバス海峡のアザラシ猟に伴って開始された。1803年から1804年にかけて北部と南部でデイヴィド・コリンズによって植民が行われ、ロンセストンとホバートが建設された。ナポレオン戦争の影響で、数年間本国政府の植民地に対する関心が弱まっていたにもかかわらず、ヴァンディーメンズランドへの植民が行われたのは、ニューサウスウェールズの時よりも戦略的関心が強くはたらいていたからである。初期の住民たちは多くがシドニーからの流刑囚で、アボリジナルのように狩りをして生き延びた。1812年に南部と北部の植民地は統合された。1813年から17年まで(副)総督の任にあったトマス・デイヴィは、現地の無秩序な状態をほとんど改善できなかった。逃亡した流刑囚もしくは元流刑囚らは夜盗をはたらき、彼らの中でもっとも有名なマイケル・ハウは盗賊とアボリジナルが手を結ぶことを考えていた。

 ナポレオン戦争後、ヴァンディーメンズランドはイギリス帝国の再編に巻き込まれた。ウィリアム・ソレルとジョージ・アーサーはジェントリ層の確立につとめた。ジェントリは流刑囚を労働力として使用して農業経営を行った。ニューサウスウェールズを介在しない、イギリスからの直接の流刑が始まった。羊毛が主要な輸出品となり、1830年代半ばのポートフィリップ地方への入植はヴァンディーメンズランドの牧羊業者が主力となった。海運業が栄え、サーヴィス業が整備されたが、牧羊業の発展はアボリジナルの生活に重くのしかかった。彼らは侵入者に対して果敢に闘い、アーサーの先住民移住をもくろんだブラック・ライン計画は失敗した。後にG.A.ロビンソンがアボリジナルの生き残りを集めたが、「純血」のアボリジナルは生き残ることが出来なかった。

 アーサーに続く総督たちには注目すべき人物がいない。このころ現地経済が後退期に入ったにも関わらず、ニューサウスウェールズへの流刑中止がこの地域の流刑地としての重要性を頂点にまで高め、イギリスの権威と支配を支えていた。

 初期の文化的活動の例は流刑囚ヘンリー・セイヴェリの著作と、それよりやや後の、現在まで続くシアター・ロイヤルやタスマニア王立協会、それにホバートとロンセストンの国教会学校などがある。流刑を人道に反する悪として、また自治への妨げと捉え、その廃止を訴える入植者による活動が起こった。その中でもっとも有名なのはジョン・ウェストであるが、1852年に出版された彼の著作『タスマニア史』は反流刑運動の成功で終わっている。1855年から56年にかけて、ヴァンディーメンズランドはタスマニアと改称され、自治(責任政府)が達成された。当時の人口は約80,000人であった。

 流刑の廃止は、流刑廃止論者が考えていたような繁栄をもたらさなかった。イギリス本国による流刑囚関連の出費が経済を下支えしていたことが明らかとなったのである。さらにヴィクトリア植民地でのゴールドラッシュがタスマニアからの人口の流出を招き、タスマニアはオーストラリア植民地の経済発展の中で取り残された。現地の政治は保守的な政治家によって支配されるようになった。

 1870年代から鉱山業が発展した。スズがビショフ山で見つかり、その他の地域でも金、銅、銀が採掘された。19世紀末には自由主義が急速に発展し、タスマニア植民地はオーストラリアにおける民主主義の規範となった。その中でも際だった改革者は、タスマニアの下院議員選挙に比例代表制を導入し、連邦のために尽くしたアンドリュー・イングリス・クラーク Andrew Inglis Clarkである。クラークのような自由主義者の努力により1890年にタスマニア大学が設立された。精力的な官僚たちが1900年代の初めに公共衛生と教育の改善のために働いた。オーストラリア労働党が進出するのはどこよりも遅かったが、彼らは1909年と1914年から1916年にかけて政権を担った。1910年には植民地の人口は193,803人であった。

 第1次世界大戦に際してタスマニアは、オーストラリア植民地の中でも特に熱心に戦争に協力し、その協力の熱心さにふさわしいだけの失望を味わうことになった。1920年代には水力発電による電力に支えられ、ホバート、ロンセストン、マリア島や州北西部を拠点とした工業化も起こった。1923年から1928年まで首相の座にあったJ.A.ライオンズは連邦政治に移り、連邦首相となった。ライオンズの後を受けてタスマニア労働党の党首となったA.G.オギルヴィ Ogilvie は1934年に首相となり、社会政策や産業開発で辣腕を振るった。彼は枢軸国に対する軍事的な備えの必要性を主張したが、彼とライオンズは後を追うように1939年半ばに相次いで亡くなった。

 第2次世界大戦は多数の死者と混乱をもたらしたが、物質的な進歩をも生み出し、1954年に人口は308,752人に達した。工業化が進み、アルミニウムと製紙業が先頭に立った。水力発電計画は州内の発展の推進力となった。

 戦後のタスマニアには2人の詩人が暮らした。1人はグエン・ハーウッド Gwen Harwood、もう1人はジェイムズ・マコーリーJames McAuleyである。

 1970年代から、タスマニアにも変化が訪れた。主に工業化の行きづまりによって経済が停滞し、雇用の確保が出来なくなり、人口の増加も1994年に472,000人程度で鈍化した。政治の安定も揺らぎ、1972年から1996年までの間に9人もの首相が交代した。このような状況が交錯する中、環境保護運動が活発化した。特に水力発電委員会によって1972年に引き起こされたペダー湖の入水に反対する運動として、彼らは多くのキャンペーンを展開した。その中でもっとも有名で成功を収めたのはフランクリン川のダム事業に対する活動である。緑の党 Greensはカリスマ的指導者ボブ・ブラウン Bob Brownに率いられ1989年から1992年までの間と1996年から現在まで、議会において多数派形成の鍵を握っている。

 もう1つの圧力はアボリジナルの人々によってもたらされた。公式には1961年に存在したアボリジナルは38名。しかし1994年には10,113人となっている。急に人数が増えているのは、長期にわたって抑圧されてきたアイデンティティの主張と、新たなアボリジナルに対する福祉が引き金になったものと思われる。また、他州からの流入も増加の原因になっている。1972年からタスマニア・アボリジナル・センターが指導力を発揮した。リーダーであるマイケル・マンセル Michael Mansellの下でアボリジナルの主権を求める運動が展開され、1995年には議会が一部の土地に対するアボリジナルの先住民土地権を承認した。

 石光崇昭1101