オーストラリア辞典
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Tench, Watkin

テンチ、ワトキン


1758?-1833
チェスター、イングランド生まれ。
海軍将校、初期植民地の記録者


 ワトキン・テンチは1758年ごろ、イングランドのチェスターに生まれたといわれている。父は寄宿学校を所有しており、これがテンチにコネクションを与えた。1776年、海軍に入隊し少尉となった。折しもアメリカ独立戦争の最中であり、彼はマーメイド号の中尉としてアメリカ沿岸で従軍した。しかしマーメイド号の座礁にともなって戦争捕虜となり、メリーランドで3ヵ月過ごした。その後、1782年に大尉に任命されるものの、戦争の終結にともない、給料は半減した。

 1786年の終わりに、テンチはボタニー湾での3年間にわたる植民地建設の任務についた。1787年にロバート・ロスRobert Ross少佐のもと出発し、1788年の1月にボタニー湾に到着した。ポートジャクソンへ移り、植民地建設作業が一段落した後、テンチは軍隊の日常業務に従事した。しかし、1788年5月、彼は他の4人の将校とともにロス少佐によって拘束された。なぜなら、軍法裁判所の判決を変更するようにというロス少佐の命令を拒否したからである。その後まもなく彼らは釈放された。

 テンチは熱心な探検家であり、休日には植民地の西部や南西部の探検をして過ごしていた。人里離れた未開の地を探検し、そこでキャンプ・ファイヤーをすることを楽しみにする一方、そのような地では水が不足していることを記録したり、土壌のサンプルを取ったりと、現実的な関心も持っていた。これとは別に、テンチは自分の日々の生活を観察し、日記に記録するという楽しみを持っていた。イングランドを離れる前に将来その日記を出版する手はずを整えていたらしい。その日記の中でアボリジナルの様子やオーストラリアでの農業の苦労などを記している。

 テンチは1791年、イングランドに戻り、少佐に昇進した。折しもフランスとの戦争が勃発し、彼は再び海軍現役に復帰した。1794年、彼の乗るアレクサンダー号がフランスに捕らえられ、6ヵ月間捕虜として過ごした。テンチが捕らえられていたのはフランス北西部のブルターニュであったが、そこで彼はフランス革命の影響を理解するだけの知識と洞察力を身につけた。そのことを記した手紙はのちにLetters from Franceとして出版され、オーストラリアで書いた日記とともに彼の代表的な著作となっている。解放後、彼は海峡艦隊で勤務し、1798年には中佐に昇進した。1802年からは地上での任務に就き、1816年には大佐として引退した。3年後、テンチは現役に復帰し、プリマス地区の司令官となった。そして、1821年に引退した。

 その後、テンチは5歳年下のアンナ・マリアAnna Mariaと結婚した。夫婦には子どもがなかったので4人の孤児を引き取り、育てた。そして1833年、テンチはデヴァンポートで亡くなった。ニューサウスウエールズへの航海や、その初期の植民地を描いたテンチの著作は、同時代の著作の中では最も鋭く、最も文学的なものである。オーストラリアでの経験を、初めて意識的に芸術作品にしたのだった。彼の著作は、18世紀風の重厚な文体に加え、小説的な面白さも兼ね備えている。しかも良識と寛容さをもってアボリジナルや囚人たちを描いている。テンチの特徴は生き生きとした描写をする一方、個々の記述を入念に構成しているところにある。A Narrative of the Expedition to Botany BayとA Complete Account of the Settlement at Port Jackson, in New South WalesはSydney's First Four Yearsとしても出版されており、現在でも入手可能である。

 藤岡真樹1201