オーストラリア辞典
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Theodore, Edward Granville

セオドア(シーオドア、シーアドー)、エドワード・グランヴィル


1884-1950
ポート・アデレイド、南オーストラリア生まれ。
クィーンズランド州首相(1919-1925)、連邦下院議員(1927-1931)、連邦財務大臣(1929-1930)、実業家。


 セオドアは1884年12月29日、南オーストラリアのポート・アデレイドで、6人兄弟の2番目の子供として生まれた。父はルーマニア系でタグボートの操縦士をしており、母はアイルランド系の人間だった。セオドアは12歳まで州の公立学校とカトリック教会系学校で教育を受けた。彼は終生カトリックに対して複雑な思いを抱き続けたようである。その後、西オーストラリアやニューサウスウェールズのブロークン・ヒルの鉱山で働き、多くの職業につきながら各地を転々とした。

 1907年には北クィーンズランドで統合労働者協会Amalgamated Workers Associationの設立に関わり、22歳で第1書記になった。1913年にオーストラリア労働者組合AWUと合流し、その議長になった。これらの役職を通じてセオドアは労働運動を指導し、労働者の支持を背景に1909-1925年の間クィーンズランド立法議会の労働党議員にもなった。1909年建設業者の娘であるエスター・マホニーと結婚した。2人は2男2女をもうけた。1916-17年には反徴兵制運動に加わった。党の副代表、州の副首相や財務大臣などの役職を歴任した後、1919-1925年の間州首相を務めた。セオドアは労働党内の左派、労働組合の急進派、牧羊業者とそれに連携するロンドン市場、州の立法評議会と対立し、1922年の州立法評議会(上院)の廃止に中心的な役割を果たした。経済面では開発政策を押し進め、多くの州営事業を立ち上げた。1925年には連邦政治に参入するため首相を辞任した。

 「レッド・テッド」として知られるようになったセオドアは、1927年連邦下院議員に初当選した。このときジョン・レンJohn Wrenとともに収賄容疑で連邦王立調査委員会に告発されたが、切り抜けることができた。1929年労働党が野党であったときに党の副党首になり、同年労働党のスカリン内閣が成立すると、首相代理兼財務大臣に就任した。しかし、これはちょうど世界恐慌の時期に当たっていた。セオドアの対策は人為的に緩やかなインフレを起こして銀行の信用を回復しようとするものだった。しかし、この案は銀行や議会から猛反対にあった。そのうえ、セオドアは1930年、クィーンズランド首相時代のマンガナ鉱山の不正売却疑惑を、クィーンズランド王立調査委員会から追及されて、財務大臣を辞任した。1931年のセオドアの財務相復帰問題は労働党を分裂させ、同年12月の総選挙で労働党は大敗、セオドアも落選した。同年8月裁判所はセオドアのマンガナ疑惑を無罪と判断した。

 落選後は銀行とラングの裏切り、「愚かな労働者」の無知に失望し、たび重なる要請にもかかわらず政界に戻ることはなかった。商業活動に専念し、フランク・パッカーFrank Packerとともに『オーストラリア・ウーマンズ・ウィークリー』Australian Women's Weeklyを創刊した。彼は後に『デイリー・テレグラフ』などにも支配を拡大し、第2次世界大戦までにはメディア・グループを立ち上げた。また後にジョン・レンとともにフィジーで金鉱山を採掘した。第2次世界大戦中である1942-44年には連合軍労働評議会の常任顧問を務めた。1950年シドニーにて没した。

 左近幸村1201