オーストラリア辞典
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The Tampa Crisis

タンパ号事件


 2001年8月26日ノルウェーの貨物船タンパ号は、オーストラリアとインドネシアの間の公海上を、ボートに乗ってさまよう438名の人々(難民434名、船員4名)を救助した。彼らはそのほとんどがアフガニスタンからの難民で、中には幼児や妊婦を含んでいた。当初、船長のアルネ・リンナンは難民たちをインドネシアへ送ろうとした。しかし、彼らがオーストラリア領のクリスマス島へ向かうことを望んだことや、多くの人々の健康状態が悪化する中でインドネシアへ向かうことの危険性などを考慮した船長は、より近いクリスマス島へと進路を取った。

 ところがハワード首相の下、オーストラリア政府は難民の受け入れを拒否する決定を下し、クリスマス島へ向かうタンパ号に対して、領海外へ出るよう再三の警告を行った。しかし、船長はこれを無視して進み、27日にはクリスマス島沖4マイル(約6キロ)の海上に停泊した。ここに至って、政府は軍の特殊部隊(SAS)を動かし、タンパ号に乗り込ませた。船長の外部との接触は大幅に制限され、メディアの取材も許されなかった。悪化する難民の健康状態を考慮して食料・医薬品の提供は許可されたものの、難民が上陸することはできなかった。このようなオーストラリア政府の態度に、国内の人権擁護団体や国外においてもタンパ号を所有する船会社の在国ノルウェーをはじめとする諸国から国際的な非難が寄せられたが、事態の好転にはつながらなかった。

 1週間後、ニュージーランドとナウルが難民を引き受けることで、この事件は一応の決着をみた。難民434名のうち、夫婦と子供150名はニュージーランドが、残りの人々はナウルが引き受け、ナウルにはオーストラリアが費用の支援を行った。太平洋の島嶼国へ難民を移送する、このようなオーストラリア政府の対応は、「パシフィック・ソリューション」と呼ばれた。

 米田誠0604